ふらり・ふら〜り旅ごころ

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8年ぶりにインドへ 8年ぶりインドblog編[1] [2] [3] [4] [5]

08年KKHを走るblog編[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

Ragosのホームページから拝借しました。映画「Tibet Tibet」は金森さんのノンフィクション ロード ムービーです。各地で上映会が開催されており、ダラムサラでの上映を希望しておられます。 ダライラマシルエット

ペンシル 1999年の秋、大きな荷物をタイ・バンコクの空港に預けて、アユタヤへ日帰り小旅行。鉄道に乗りたくて北上しました。車窓の風景を見ながらガッタンゴットン。気持ちよく揺られていると、隣近所の座席のおばさんたちが、親切に降りる駅や街の様子を教えてくれますが、悲しいかなタイ語は全くわかりません。いつものように手振り身振りで無事到着。見学を済ませ、圧倒される遺跡群を後に鉄道駅で待つこと1時間くらい。列車が来ない。。。。荷物を受け取りデリーへの乗り継ぎなので気が気ではありません。

幹にある仏頭
根の間に仏頭が
寝姿の仏陀
寝姿の仏陀
  大きな荷物はダラムサラの「グチュスムの会」への衣類(インドの女性はサリーを着用)と、ルンタプロジェクトの明美さんの修理済みノート型パソコン、サールナートへの文具類ほかです。この年、私の中に「一度インドを卒業しよう!」との決意がありました。バザーや寄付で頂いた衣類・文具を整理してパッキンし運びましたが、関空で法外な!と叫びたくなるような別料金が発生しました。調査不足の結果とはいえ、寄付なんだけどなあと粘るもダメ。自宅へ戻すことも考えましたが、皆さんからのご好意の数々であり卒業記念にと持ってゆくことにした荷物です。
 ホームで居合わせた日本人青年と協議の結果、街外れの路線バスを使うことにして猛烈な速度で走りました。。彼は私より深刻で、バンコクの空港で待ち合わせの人と、どこかの国への乗り継ぎの時間が切迫しており、大変です。何とか間に合ってホッ。Bye Byeいい旅してね。さて私もダッシュです。こちらは係官から大きな荷物を不審がられ、「開けて」と要求されましたが、セキュリティを通過してきているし、インドのpoor childrenへの寄付だよと強行に押し切ってOKを獲得しました。時間がないんだから邪魔をしないで。

ペンシルさて、デリー。昨年のMr.Manshinを指定し、ダラムサラ行きの荷物だけを搭載し、サールナート行きの荷物は旅行社で預かってもらって一路ダラムサラへGO。Mr.Manshinは昨年とは態度が違い、朝の出発で夜遅く到着のつもりが、下の街で一泊を要求します。仕方なく承知しましたが、ホテル近くの街のホールでの結婚披露宴にまたまた遭遇。ご馳走が頂けるぞ、とにんまり。いい加減なんだから私は。規模は小さいけれど、若者たちの音楽演奏や、盛り上げ屋の登場で、いやはや賑やかなこと。この時もやっぱり時間が長すぎて、爆睡の子供あり。一晩中踊り、食べ、しゃべり、騒ぐのだそうです。
披露宴
家族に囲まれて

盛り上げ屋楽団
爆睡
疲れて爆睡
しっかり食べて遊ばせて頂き宿屋へ戻りました。国中の飢えたこどもや痩せ細った老人に比べて、なんと皆様立派な体格だこと。

今年はダライ・ラマ14世に会えるだろうか?

ペンシル 翌朝早くルンタハウスに到着。目を見張りました。昨年骨だらけの建物が立派に完成しており、空いてるゲストハウスの一室に荷解きしました。
今日から2週間、何かまとまったことが出来ればいいのだが。レストランが開店しています。チベット青年がパンやバター茶を調理し、チュバ(チベットの平服)を着た若い女性たちが接客と配膳を担当しています。みんな笑顔がいっぱいですが、しばらく見ていると問題も孕んでいるようです。日本式の少しでも良くしようとする指導が、チベットの若者には難しい。私自身は箸の向きがどっちでも、食器から野菜が少々こぼれていようが、チベットの人々の笑顔に癒されます。そうしたほんの些細なことが、運営側とスタッフとの間に軋轢が生じることもあります。なつかしい直子さんとすっかり大きくなったティニーちゃん。二人目の赤ちゃんをベビーカーに乗せて采配をふるう直子さんとマネジャーのご主人。ダラムサラで得た仕事を大切にしている責任感に感動します。日本人・外国人を問わずお客さんは日本食に満足しているようです。ケーキがおいしいのもシェフ直子さんの努力の賜物でしょう。もちろんルンタハウスのチベット人スタッフのご苦労やボランティアの佳代さんの存在も大きいです。ダライ・ラマ14世もチベット支援で有名な俳優のリチャード・ギア氏も訪れたと聞いています。

コンビ 陽気な調理人コンビ 昼食 スタッフの昼食 佳代さん
佳代さん
ルンタハウス 完成したルンタハウス 室内 レストランの内部 学習 外国人から英語を習う僧侶
  コンピュータ学習や英語習得プログラム、縫製技術の拡大と販路などを模索中とのこと。どれも緊急を要します。この段階ではまだまだでした。チベット僧の肩掛け布かばんやタルチョー(経文が書いてある旗)、チュバくらいの需要では、これからの販路拡大には繋がらない。欧米の観光客にも買ってもらえる質の良い商品を考えているようです。語学のボランティア探し。向学心に燃える若い僧侶は熱心に英語を教えてもらっています。私が参加出来ることはないのだろうか。昨年来た時、私にもあるような気がして今年もやってきたのだが。しかし始まったばかりのプログラムにはまだ出番はありません。運営責任者の明美さんは忙しそうです。準備も整っていないため、結局自分で模索するしかない。

ペンシル 時間ばかりが過ぎてゆきます。そんな中、調理を応援している佳代さんと仲良くなり、体息と称して中流ホテルに泊まりました。その帰り道、細い幹線道路に人だかりが。イスラエルから帰国のダライ・ラマ法王の車が通るという。民族衣装をまとう年配の婦人たちをはじめ皆手を合わせて待機しています。私たちもラッキー!と並びました。敬虔な信者でなくても思わず手をあわせ、ほんの数分の幸せを味わいます。三々五々人垣が崩れ、穏やかな時間が流れてゆく。

 呼びかけ第2弾は街中に張り紙がでて「11月8日、世界にむけて平和アピールを訴える講話があるよ」というもの。当日は朝暗いうちに会場の寺院へ出向き並びました。しめしめ私の前には数人だけ。しかし静かなこの山の街の何処に人々がいるのか、それはそれは多くの人が集まってきました。メディアも待機しています。全部はわかりませんでしたが、新年にむけての世界平和への呼びかけでした。法王の顔までほんの3メートルしか離れていなかったと思います。居並ぶチベット僧のすぐ後ろ、民間人の一番前列。それがどうしたと言われそうですが、どうだ!なのです。笑顔に出会うと幸せな気分になれるのです。
 さて第3弾は? また法王に出会う機会が。ひとりの所在無い時間を、山の上の亡命チベットの子供たちの学校へ足を運んだ帰り道、トランシーバーを持った青年を見かけた。法王の車おやっ!これはまたラッキーの前兆か。そうです、周りには地元のひとりのチベット婦人だけ。そこへカーブを曲がってきた、見覚えのある黄色い車が・・・・。そしてゆっくり手を振る車内の法王とちかっと目があったのです。私一人の法王でした。今日もいいお顔だこと。インドでは3回見かけましたが、翌年の4月、京都精華大学が招聘した"ネイチャーメッセージ"講演申し込みの抽選に当たって、ふっふっふ。 紹介サイトに是非ジャンプして読んでみてください。質疑応答のコーナーでは、泣けてしまいます。こちらに戻るのを忘れないように。

ペンシル そろそろ私が今出来ることを始めなければ・・・・
やっと準備できたのが洋裁の手仕事です。デリーで買ったという生地がたくさんあるので、これを使って、ポケットつきのジャンバースカートを指導してみよう。ベッドの上で新聞紙をつかって製図し裁断の準備をする。タルチョー、僧侶の法衣、肩掛けかばんなど、決まったものばかり縫っていた彼女たちにはいつかきっと役に立つ時があるだろう。

洋裁 写真右の婦人は熱心に夜遅くまでミシンを踏み、夫に子守を頼んで仕上げました。私も真剣勝負だと思い、とことんつきあいました。つらい過去を持つ彼女たちがふと見せる悲しい表情に、心が痛むときがあります。シャツの上に完成品を試着したときの、はにかんだ笑顔が素晴らしかったです。その後役に立ったかどうかはわかりませんが、私は一心不乱に共有した時間を忘れることはない。チベットの人々はよく唄を歌います。数人寄るとすぐ合唱が始まります。とても素敵な笑顔です。しかし拷問によって指を失った婦人もいます。中国侵攻による1959年のチベット動乱以前にタイムスリップできればどんなに幸せなことか。
 心を残し、佳代さんに見送られてバスで10時間のデリーへ出発しました。深夜のバスの中は欧米人ばかり。ひとつの座席の支えが壊れて、ガタンコガタンコ鳴ります。チベット系のバスはオンボロで他社のほうはピカピカバスだそうです。しかしオンボロバスを利用することも、チベット支援のひとつだとばかり誰も苦情を言いませんでした。

チベットの現状とダライ・ラマ14世の近況について、もっと知りたい方は 「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」へジャンプしてください。

ペンシル バスが到着した最寄の鉄道駅で、トラブル発生です。荷物預かり所を探すために繋いだバゲッジがない。うさんくさい男が私の後ろをついてきて、しきりにホテルの勧誘をしていたあいつか!鍵つきワイヤをぐるぐる巻きしておいたのに。

スタンドカットしたに違いない。$100とダラムサラの思い出がいっぱい詰まったキャリーです。ポリスに懇願しながらも、なんもしてくれないだろうなぁと悲しい。しかし諦め切れず未練がましくもう一度戻ってみたら、側にある屋台の電話やさんが「これかい?」と自分の足元を指さす。あらら、汚い私のバゲッジではないか。「ワイヤが外れていたよ」 ぐるぐる巻きすぎて結局手品のように外れていたらしい。嬉しくて100ルピー札を掌にあて、握手でお礼を述べました。私ってなんてスマートなんだろう。やはり私は強運の持ち主でした。疑った勧誘員さんごめんなさい。やれやれ。

ペンシル サールナートは今日もいい天気。学校には日本からの若い旅行者が見学にきています。生徒たちは相変わらず元気だ。もちろん後藤住職も。「今年で一旦インドを卒業します」とは伝えられなかった。日本にいても電話で連絡もできるし、支援のお手伝いは続けられるし。ぐずぐずしているうちに帰国の日がきました。2003年の秋、こうしてホームページもなんとか開設でき、留学生の来日を待つばかりの今日この頃ですが、お約束のように手続きが遅れています。サントーシュ君の受験に合わせて、住職の里帰りを実現したいのに、どうも受験に同行は間に合わないようです。これもインドです。 

若者
学校訪問の日本人学生と歓談
庭
日曜日の朝

ペンシル インドを訪ねるたびガンジス川の朝日・夕日を眺めた7年でした。四角の500mlペットボトルを欲しがったジュース屋の若者。話の種にとブラックマネーに手を出して、ちょっと怖かったカルカッタの裏通り。夜中に到着して、慣れているからとリクシャーで予約のホテルへ行くつもりが、例の自分がリベートの取れるホテルへ連れて行こうと勝手に反対方向へ走る。よく知った街だから「NO!」と喚くが止まらないので、バゲッジごと飛び降りて近くの大きなホテルに飛び込んだことも。安宿から高級ホテルまで様々の体験をしたインド。
 マザーテレサの「死を待つ家」でのちょボラ。しかし欧米からの長期滞在の中年婦人の多さには驚きました。ボールペン数本を台に載せて、売れるまでじっと座っているおじいさん。色とりどりの神様のポスターとブルース・リーのポスターを並べる露天商。0を発見したインド。仏教を起こした国がいまや仏教徒はインド国民の約10%ほど。ヒンディー教もジャイナ教もキリスト教も、貧しい子も低カーストも、わけ隔てなく仏教の慈悲の精神を説く後藤住職のいるインド。
 停電とコンピュータのダウンが頻繁に起きて、鉄道のチケット予約に待ちぼうけもたびたび。ガンジス川のほとりで僧侶がお祈りをしてあげようと平気でふっかける。初めて行った時は大通りを、象を連れた家族が歩いていた。ガンジス川へ続くゴードウリアのらい病の乞食たちが、新しい市長の政策ですっかりいなくなったと聞いたが、何処へつれて行ったのだろう?約3000にも分かれているカースト制度、起源は3500年前に遡るという。ゆるやかだが、公務員や国会議員に下位カースト出身者の活躍が見え始めてきたようです。

ガネーシャガネーシャガネーシャ
 あれもこれも思い出深く、帰国間際はいつも「帰りたくない」と空港で洟をすすっていたインド! 私にとっては国中が博物館のようでした。いつかまた訪ねたい。K嬢には私の遺灰をガンジスに流して欲しいと頼んでありますが、航空運賃は用意しておかなければいけないですね。もう一度チケットが当たるなんてことはないでしょうから。(完)

あれから8年後の2007年9月に再びサールナート前編サールナート後編を訪れた。1994年サールナートで出会った後藤住職のもとへ。
そしてBlogスジャータ村とメトロ乗車体験へ続く

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