ふらり・ふら〜り旅ごころ

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1993年7月

ひとりで成田から出発(関西空港はまだ未開港)しました。往復チケットはタダ!その春、クイズに当選というかAir India デリー〜成田直行8時間の8に丸して1枚のハガキでめでたくゲットしました。後に読んだ雑誌のコラム(多分FRAU)によると「インドは呼ばれて行く国」というらしい。希望しても行くチャンスに恵まれない人もいるとか。クイズに当たるとか当たらないとかではなくてね

「誰かインドへ一緒に行かない?チケットは無料だけど」と呼びかけても返事はなかった。そりゃあ中年の女性ではじめてのインドに、ましてや7月(酷暑)ならやっぱり引きます。プレゼントチケットはベストシーズンには決していただけないでしょう。かくしてひとりで成田から出発しました。大変なことになるとは露ほども思わないで!

ペンシル

さてデリー。無事荷物を受け取り「出口」へ。歩みが止まった。ガラスに男の顔顔顔・・・・・さらに鼻を突く匂い。クラ!クラ!ここで引き返す観光客も実際にいたそうです。わかるなぁ。出たとたん、たくさんの手が伸びてきて私のボストンバッグを引っ張る。ここでまたクラ!クラ!クラ!「やめて〜」と絶叫するもお構いなし。もみくちゃの中、出発前に予約のホテルの名前を叫んだ途端、手はスーと引いてゆきました。タクシーの運転手は自分の知っているホテルへ私を差し出して、マージンを稼ぐというシステムになっているのだ。

仕事の都合で5日しか日程がなく、それでも3日は観光できるぞと1日目は市内をうろうろ。2日目は昨夕ホテルで手配した国内線エアーで、あの有名なバラナシのガンガ沐浴風景をみるべしで、早朝のフライトで出かけた。 久美子ハウス

久美子ハウスへ行けばなんとかなる。自称子供ガイドがしつこくついてきたので、方角も不安だったこともあり、紐をバッグにくくりつけて案内を頼んだ。細いくねくね道を経てやっと着いた久美子さんから「なんて危ない!」と叱られました。観光客相手にふっかけハシシを売りつけるという治安の悪い地域で、久美子ハウスは若い無謀な日本人旅行者の救世主的な存在でした。今治安はどうでしょう。

若いバックパッカーたちは、ゴロゴロと日を過ごしている感じがしました。下痢で七転八倒しているのは概ね男子。女性は元気に大地を闊歩していました。

(写真右)ガンジス川からみえる久美子ハウス

ペンシル

とんでもないことが・・・・
翌日はガート(火葬場)や細く曲がりくねった露地を、牛と犬を避け、糞を外し、しつこい客引きを睨みつけながら散策した。今日は日本へ発つためデリーの空港へ戻らなければ。日本人には血液型のA型が多いのと同じように、インド人にはB型が多いそうな。私はB型でこじつけていえば血が呼んでいるというか、臭くてもきたなくても"インド"には全く抵抗がない。つまりやっぱり呼ばれて来たのだと思う。

さて、「まあ午後10時便だし」と軽い足取りで夕方バラナシ空港へ向かう。ところが待っても待っても呼び出しがない!雑音の鳴り響くアナウンスは何を喚いているのかわからない。途方にくれていると日本人男性(建築関係か商社マン?)が「南の空港経由で一か八かデリーに行こう」と誘ってくれた。私には選択肢がなかったので走ってついて行った。その空港はバンガロール(今をときめくインドのシリコンバレー)だったことが後で判明した。デリーの空港にはフライト10分前に到着。走っても間にあわず、成田行きの飛行機を涙ながらに見送った。

ここはインド。日本の感覚での乗り継ぎなんて望むほうが無理だったのだ。ホテルで予約のチケットなのに、何かと遅れるインドで何故こんなときだけ、トホホ。。。
ここからが大騒動!


海外旅行では、今まではエアー&ホテルまたはツアー旅行だった私には、航空会社と「どうしてくれるの?」と交渉する知恵を持っていなかった。先の男性からも「とにかくインドでは押して押しておしまくれ!」とアドバイスをうけていたので、さあ戦闘開始。。。
職員A 『バラナシ〜デリーは国内線だから、Air Indiaは関係ないもんね』
私「しかし系列の会社でしょ!乗れなかったのはデリー行きが来なかったからでしょう!次の便のチケットの手配をせよ!」
職員A 『私は関係ないから〇〇へゆきなさい』〇〇へゆくと
職員B 『こちらは関係ないから△△へゆきなさい』とたらいまわし。ここは泣き落としで迫るしかないと覚悟を決めた。効果テキメンで交渉開始。しかし『次の便は3日後です、ラッキーだったらね(ニヤと笑った)』
私「??と思いながら、深夜にホテル探しはいやじゃ」
職員C 『空港近くのHセントールを手配します』ヤレヤレ。タクシーでホテルへ。部屋についたのは午前3時頃。無料チケットで無茶をいったと今ではちょっと反省。インド人は概ね自分に関係ないことはとにかく逃げようとするが、交渉劇を楽しんだフシがあったことは認めます。

ジュース屋 ペンシル

まずは自宅にfaxで通知。勤務先へはお詫び。さあここからの3日間をどうしましょう。個人旅行のバイブル{地球の歩きかた}(当時はその手の本はあまりなかった)を読むと、Hセントール(航空関係者の定宿)は本当に空港の近くで、観光するには全く不利な立地条件であった。高級すぎた。いくら無料でも不便であった。仕方なくタクシーでデリー南の安宿に移動することにした。
国立博物館では収蔵品の多さにおどろき、細密画に目を見張りました。再び来るような予感に誘われ、翌日は北上し、オートリキシャと5時間の観光契約をしてニューデリー、オールドデリー、ラージ・ガート(ガンジーの墓地)などを観光。到着した時通った道路が小さな川になっているので聞くと、大雨で増水したとか。靴を脱いで通過する。衛生状態は大丈夫かいなぁ。帰国後デリーが洪水とニュースにあったけどどうだった?と聞かれて、そうかバラナシに行ってるあいだの出来事だったのでした。
繁華街の中心地コンノート・プレイスの地下はショッピングアーケードになっているが、当時は入場するのにパスポートの提示を求められた。そんなに高級品があるのかと思っていたが、普通の商店街だった。 牛飼い

ここまでで読者の方は、私の英語力をどれほどと想像されますか?自慢じゃありませんがボディランゲージです。当時は中学生レベル、いまは個人旅行に必要な最低限レベルです。語学力が達者で危険、事件に巻き込まれ、不幸な結末の旅もあるのです。
モットー用意は周到・女は度胸・旅は愛嬌。

ペンシル

さてお約束の3日後(土曜日)、もうインド滞在は結構!とばかり3時間前の午後7時に空港に到着した。念のため確認すると
職員D 『waiting ticketだから10分前までわからん!』がっくりきた。通常の出国手続きを済ませ、ゲートで押し問答するも
職員E 『まだわからん』 もうどうでもよくなってきた。まただめなら泣き落としだい。

結局10分前に搭乗呼び出し。職員E・F・Gがそろって「バクシーシよこせ」のしぐさをする。あほか!人の弱みに付け込むんじゃない!と思い切り日本語でどなり、ひとりの足を蹴飛ばして走って乗り込んだ。あ〜今思い出しても腹が立つ。しかしこれがインドです。時に警察だって賄賂が必要。バクシーシは当たり前、観光客特に日本人への要求はすさまじい。何故?Why?
にもかかわらず、その後6回もインドに行くことに・・・・・

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