ふらり・ふら〜り旅ごころ

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2001年2月

ペンシル

カサブランカ! カサブランカ!カサブランカ! 知る人ぞ知る映画「カサブランカ」である。お墓にもってゆくビデオ1本ならこの「カサブランカ」を希望します。映画「クンドゥン」のロケ地がモロッコだったことからつけたしのような理由もある。モロッコに行く!と宣言すると一人「私も行く」と手を上げたのが、インドも同行したK嬢でした。公衆電話セミプロカメラマンとして、彼女は月の砂漠が撮りたいと、これをきっかけにモロッコにのめり込み、2002年に5ヶ月 2003年に3ヶ月ひとりで撮影旅行を敢行する美人だが猛女である。おしゃれなミラノの空港の公衆電話
 モロッコは太陽の沈む所と名付けられた北アフリカのマグレブ諸国のひとつ。イスラムの王国です。その首都がカサブランカ。アリタリア航空にて、ミラノ・マルペンサ空港経由でカサブランカには深夜に到着。治安はそれほど悪くないとタカをくくっていたが、30代くらいの芸術家タイプの日本人男性は、親子ほどの女性二人組を気にかけてくれていたようだった。山のようなレコードの束を、街中まで予約済みのレンタカーで運ぶのだそうだ。タクシーでも深夜はやばいからと、私達の予約済みのHotel Plazaへ送り届けてくれた。この時3人の日本人の若者が空港にいた。聞くとそれぞれひとり旅でスペインを目指している。サッカー観戦である。モロッコからは高速艇でスペインに渡るのが安い。ふたりは19歳でサムライ君と坊ちゃん。空港の外で野宿し、あす鉄道でフェズへ向かうという。無事を祈る。さてもうひとりの青年はボンボン。いかにもおとなしくどうするか迷っている風である。しゃあない、ついでにレンタカーに乗せてもらい、Hotel Plazaに押し込む。翌朝ひとりで旅立って行ったけど、ちゃんと予定通り日本に帰国したんかいな。芸術家氏はモロカンリズムとポップミュージックのコラボレーションを模索中とか。いい仕事をしてください。ありがとう。

ペンシル さて2週間の旅の始まりです。まずは街をぶらついてジュラバ(モロッコの民族衣装)を探す。フランス領だったせいでなかなかのデザインであるグレーのしゃれたジュラバを600D(日本円で約7000円)で購入。旅人プライスはわかっているが、気に入ったのでお買い上げ。男性か女性か判別できない婦人に早速寸法直しをしてもらい、そのまま着て帰りました。ねずみ男を知っていますか?あのロングコートを想像してください。モロカン男性がフードをつんと立てて着るとねずみ男になる。私のフードは背中から腰あたりまでぶら下がり、現地の女性たちはフードの先っちょに素敵な飾りをつけて美を競っていました。家系や既婚をあらわすツールでもあるようです。その後行く先で、「あなたのジュラバ素敵」とモロカン女性から声をかけられました。それでも若い人たちはセーターにジーンズ姿が多いです。

2月8日マラケシュ着

ペンシル

大草原に映える夕日を道ずれにひた走る列車は5時間でマラケシュ着。午後8時だった。日本人女子学生とフナ広場までシェアすることになったが、ここでタクシー運転手が私達を獲得すべく争いが勃発。赤のFIATプチタクシーが20DH/carにするという。 白のBENZグランタクシーが40DH/car。4人が乗れて同じ距離をゆくなら、安いほうがいいに決まっている。私としては別のタクシーを調達するか、プチタクシーのおじさんに軍配をあげたかった。待つこと数分。どう解決したのかグランタクシーで出発した。現地には現地のルールがあり、あのあと優しそうなFIATおじさんに鉄拳が下らないことを祈るしかない。 彫り天井館内改装中の安ホテル(しかしモザイクは立派!)に2泊の荷を降ろす。写真左は天井のモザイク模様を彫る職人
 赤土の城壁に囲まれたマラケシュのメインはフナ広場と世界遺産のメディナ。フナ広場は大きな夜店で、食べる、大道芸を見る、買い物をするが深夜11時までくりひろげられる広場です。カバブを焼く煙が立ち昇る屋台が延々と続いており、各店のテリトリーが決まっているようで、席取合戦は見ませんでした。 ヒンドゥーの神様ガネーシャをプリントしたTシャツを着ている青年はパキスタンボーイだという。彼の名言「おねげェします」連発に、どうも日本人が教えたらしい。このあと日々活用して私達は笑い転げる羽目に。勿論訂正はしておきましたが・・・・。

ランドマーク
マラケシュの夜は更けて・・・
パキスタンボーイ
陽気な青年
別の国でも「くるくるパー」を教えた日本人がいました。お互いの人権と文化は大切にしよう。  ここマラケシュはフェズと並ぶ大きなメディナが有名。今回のモロッコ旅はカスバ街道走破と砂漠ツアー、フェズのメディナ探索ときめていたので「Hotel Ali」でフェズまでのチャーターミニバスの手配に時間をかけた。インフォメーションスタッフの女性は、ホテル玄関中央に鎮座し、私達の計画を辛抱強く聞きながら、その間宿泊客の出入りチェックと鍵の管理をしている最強キャリアウーマン。若者たちは、2泊3日四輪駆動団体ツアーが多いようだ。マラケシュの超人気ホテルとみえて、出入りの人々で混雑しています。私達はフェズへ抜けるため、3泊4日のミニバス+ドライバー+ガソリンをチャーターし、3泊分ホテルは自前で探すことにした。

2001年2月10日 いざ出発。
しかしいきなりドライバー&ガイドのMr.Hassanが遅刻する。やれやれ。Hassanは昔の日本でいえば太郎さんのように多い名前です。

2月10日
ペンシル アスニ村〜カスバ街道へ
郊外の素朴な青空土曜市。華やかな民族衣装の水売り、足を縛られた鶏の束、豊富な野菜、香辛料屋、散髪屋、食事処、きったないトイレなどなど。
ミントを10円くらいで山盛り2束を購入。その後道中の車内とホテルの部屋にいい香りを漂わせてくれました。
◎アトラス山脈越え カスバ街道を行く
峠の茶屋で二人のジョルダン(POLICE)がいきなり握手を求めてきた。モロッコの親日ぶりはうわさ以上。お茶して、美しい棚田を後に出発した。
◎アイト・バン・ハッドゥ 
カスバ街道の日干しレンガ建造物のひとつ。アラブ人の侵攻に先住民ベルベル人たちが造った砦だが、現在5家族が住み、世界遺産に登録されています。映画「アラビアのロレンス」や「シェリタリング・スカイ」のロケ地としても有名。家の中の見学料が5DH/人、合法かいな?維持管理に利用していただければいいんです。民家屋内の壁に映画「タイタニック」のポスターが場違いに貼ってありました。
アイド・バン・ハッドゥ
日干しれんがの民家遺跡
キッチン
カラフルキッチン
タイタニック
ポスター

Mr.Hassan面目躍如!
彼はかわいい10歳の少年を案内役に手配してくれていました。いつどうして連絡したのかわかりませんが、いつの間にかはにかんだ笑顔でついてきました。言葉は通じないが気配りさわやかな子で、お土産屋でも知らん顔で外でじっと待っていた。一緒に連れてカサブランカやフェズの街を見せてあげたかった。大満足でしたので、少年にチップをはずんでHassanを喜ばせてしまいました。
ペンシル ワルザザート泊 ホテル・パルムレイ
アパート風の2階建てで独立性のある部屋でした。プールもあり食事もgood。ヨーロッパからの観光客が多いとか。個人でゆ行く方にはお薦めです。
2月11日
カードマシンがダウンし、現金をかき集めて大慌てでした。Hassnまたも遅刻。村のどこかで宿泊しているのだが、夜遊びしてるんとちゃうか?
ペンシル ダデス渓谷へ
緑豊かな渓谷と巨岩奇岩がごろごろ。ここでもHassanはポイントアップ。彼の友人宅で格別美味しいミントティーとヘンナ体験。ここでのミントティーは旅を通して一番コクと香りがありました。礼儀正しい4男2女のパパはロマンスグレーのいい男です。長女ファティマさんにファティマを描いてもらう。ファティマさんは昔の日本の花子さんのように親しみ深く、多い名前です。染料ヘンナで幾何学模様を手に描くのだが、これは魔よけと幸運を呼ぶという習慣で、女性だけに描くようなので、幸せな結婚を願う表現かもしれません。インドのお嫁さんも結婚式に、同じような彩色を施しています。2週間くらいは手に残るらしいが、私のは3日位で薄くなってしまいました
末娘 3歳くらいの末娘が、モロッコに来てはじめての両頬チュッチュッを体験させてくれました。このお嬢さんも連れて帰りたかったです。右写真はスケッチブックから

◎今夜はHassanお薦めのホテル ロッシュ泊
トドラ渓谷の大岩石の間にあるホテルで、ヨーロッパ人にはロック・クライミングとして有名な渓谷です。写真左の上から1センチ中央の米粒が登山者です。 夕食は大テントの中であれこれチョイスできるア・ラ・モード。味はまずまずなのだが、ゆっくり食べさせてくれない。親日家のスタッフがやれっ写真を一緒に、住所を書くからそれっ送ってくれとまとわりついてうるさい。連れのK嬢が美人なので仕方ないのだが、つけたしの私には・・・。
日本から送って到着するんかいな?この国の郵便事情は。。。
ロック・クライミング ホテル・ロッシュ
2月12日
◎朝の散歩中にトアレグ族の青年に遭遇。
ブルーのターバンをかぶり口をふさいでいるので、キラキラ光る目に吸い込まれそう。ターバンの色で出身族がわかるという。ロングドレスのポケットには刺繍が施され、腰あたりから裾まで生地に地紋がある。お知り合いになっておけば、もっと詳しく、たとえばドレスの中はどうなってるの?と聞けたのだが、いくらおばさんでもそれははばかられた。いやはや美しい青年でした。もっとも目から下を覆っているので、歯が真っ黒という可能性もありますが・・・・
ペンシル 出発にあたりホテルのスタッフがゾロゾロやってきて、今夜のホテルは絶対「HOTEL SALMA」にせよっ!と迫る。その素晴らしさと距離と所要時間をメモし口々に説明する。こういう場合はたいてい訳ありなのは旅の達人には匂うのです。今夜はサハラ砂漠のメルズーカ。う〜ん、なんだろう。どうも2泊3日の砂漠らくだツアーを勧めているようだ。Hassanも承知の出来事だろうし、ここは彼を立てて、「ではそうしよう」とひき下がり無事出発できた。

◎午後になって砂漠のメルズーカに入る。
我らのミニバンは4WDの輪だちを追って全速力で走る。するとな〜んにもない荒野にポツンとホテル「SALNA」の看板が見える。時間は14時20分。はるか向こうに見える車列はパジェロなどの4WD。あれはもっと奥の「ホテル トンプクト」に行くにちがいない。マラケシュで出会ったフランス人夫婦のガイドが、ヒラリー・クリントンさんが泊まったホテルだよ、と紹介状を書いてくれた。が話の勢いで「SALMA」になった経緯がある。がしかし予算が合わなかっただろうとは思う。
 15時からホテル代の交渉開始。どうみても安ホテルだが、敵もなかなか引かない。妥当な金額とは思えないが宿泊、食事、朝夕のらくだツア2回でやっと16時に交渉成立する。回りを見ると女性は二人だけで、スタッフがごろごろ男性ばかり数人。あららである。
らくだにトライ
らくだライドにトライ
砂漠ツアファッション
砂漠ツアファッション
夕焼け
サハラ砂漠の夕焼け

ペンシルCamel Tour by Mr.Bara
17時「砂漠の夕日ツアー」に出発する。ツアガイドMr.Baraは、太郎と次郎(私が命名)の2頭のらくだの背に私達をのせ、まっさらな砂漠に影をおとしてゆっくりゆっくり綱を引く。丘の頂上で私たち二人は砂上に倒れて人文字を作って遊ぶ。18時45分日没。せっかく感慨にひたっているのにBaraは、ポケットから土産物をだして勧める。「あほか!興ざめだよ」と一喝。夕食後スタッフ達と太鼓をセッションして愉しく夜は更けたが、部屋の鍵が心配でよく眠れなかった。

2月13日
ペンシル Camel Tour by Mr.Gaga
朝6時出発。綱引くGagaの歌はリラクゼーションそのものの世界。丘の頂上で祈るGagaの姿に魂を揺さぶられる。7時30分の日の出を拝んでホテルへ戻り、ヨーロッパ人と台湾人12〜13人のパーティーの帰還を迎える。ラクダの背に揺られ、テントに眠る2泊3日の砂漠ツアーは素晴らしいそうです。もし機会があれば是非お出かけください。
アラビア語で「ハリラ」という料理に似ている味噌汁で腹ごしらえを済ませ、さあフェズにむけて出発です。流行中の「ラクダはらくだ〜」に見送られ、「まっさらサハラ」の感激を胸に「いっぱいサハラ」に別れを告げる。数年後にはひょっとして、モロッコのラスベガス状態に変貌しているかもしれない。イスラム圏ではその心配はないとは思うけれど、旅人の勝手で言えばそれは困る。
ラクダの影
影を慕いて
夜明け
サハラの夜明け
ハッサン
ナイスガイ Hassan
ペンシルメルズーカから車をぶっ飛ばすこと約6時間。フェズの手前30分くらいのセルフーの街に到着。ここでの40分滞在は非常に濃いものでした。道端の電話屋さん(Tele Boutique)で
「公衆トイレはどこですか?」「ない!」
「カフェにはあるか?」「ない!我が家へ来て」
「いいのぉ、しかしテレブティックはどうするの?」「オートマティックだから、ムニャムニャ」とこんな具合で、結局10分くらい歩いて彼女のワンルームマンションへ。その間Hassanはのんびり喫煙タイム。

◎モロッコ人の日本びいきは事前調査済みではありましたが、いやはや。「ディナーもどうぞ」「ドライバーを待たせてるんよ、残念!」などと、日本語英語フランス語ちゃんぽんで会話が進む。彼女はお母さんと二人暮らしで、部屋の2辺がカーペットを敷き詰めた長いベンチで、大きなクッションがいくつか並んでいます。記念撮影の後、いきなりmade in China の熊のぬいぐるみを差し出され、私達に遭った喜びを全身で表現してくれます。持参の3色ボールペンをプレゼントして、愉しい時間が過ぎました。
 18時30分やっと着いたフェズのホテルでは、汚い格好の二人連れに、フロント女性は冷たい視線を投げてくる。Mr.Hassanとはここでお別れです。横顔が相撲界の武蔵丸にそっくりな彼とは、言葉はあまり通じなかったが、目配り気配りいっぱいの実にいい男でありました。

2001年2月14〜16日フェズのメディナで遊ぶ

迷路
千年の石畳
メディナの道路
運搬は馬やロバで
メディナの通路
家に帰る親子
ペンシル

フェズの2泊目はホテルを移動しました。あとの2泊はグレードを上げていいホテルに泊まろうと見栄をはったのですが、電話での予約のためどうも言葉の壁に負けて、思っていた金額と違い、支払いの時に大慌て。チェックインの時点では疑いようもなく立派なホテルに満足満足のふたり。さあフェズのメディナに繰り出そう。とにかく広い。へびのようにくねくねと入り組んだ細い露地を歩く。あれ、さっき通った店の前だよ。くるくるまわっていたみたい。それでも慣れてくると怖いもの知らずで、冷やかしに入ったアクセサリ店の主人が「ビンボープライス」と言って、日本人観光客の値段交渉を揶揄するのがおかしい。日本人観光客は世界中のみやげ屋でもて遊ばれている。
 皮製品を扱う親父さんは、きっぱり「生活がかかっている。まけんへで!(値引きには応じない)」という態度でそれは小気味いい人でした。その後、大きなつぼに浸かって染めている職人たちを見て、楽しみとしての値引き交渉はしても、安易に「押せ押せ」は出来ないと反省しきり。それでも結局は観光客プライスです。おおいに楽しもうではないか。1000年も続く商店街にいったい何軒の店があるのだろうか?高級な陶器や家具やレストランから、行列のできる庶民相手のテイクアウトのパンやヨーグルトの店店店・・・・まで。飽きない!いやメディナめぐりは観光客を飽きさせないのだ。
ペンシル 翌日はホテル斡旋のガイドを頼んで、またまたメディナへ繰り出す。ガイド氏はまじめが洋服を着たようなインテリ青年で、大学生のバイトだった。昨日とは全く違う視点の、地元人ならではの愉しいメディナ巡り。ツアーではなくフリーなのでのんびりしたもんです。ガイド同伴の私達を見て、店の親父さんたちは「おやまあ!また来たの」の顔つき。親父さんたちと「ハーイ」と手を振って愛嬌を振りまく私達を、ガイド氏は苦笑い。

パン焼き釜
おいしいパンを焼く職人
ガイド
後姿も理知的なガイド
皮染料
過酷な皮染めの仕事場
そんなこんなの散策コースは、まずハマム(浴場)から。 入浴体験はしなかったが、裏口の火焚き係は大汗です。女の長風呂は世界共通とみえて、女性入浴時間が長い設定になっている。パン工房では親方と若者の二人が、バニヤーサという石釜でいい香りのパンを焼いている。ピザ焼釜とそっくりで、直径30センチのアラビアパンなら両面10分くらいです。お盆に成型したパン種を載せて子供達がやってくるのは、ママが自宅で粉をこね味付けしたもので、それぞれの家の味があり、お父さんも子供達もランチタイムには自宅で食事をするそうです。お盆ごと預けて後でとりに来るのですが、釜の中はたくさんのパン生地が並んでおり、一家で2〜3枚だから渡す時に間違えないのかと、余計な心配をする。私達も焼きたてを頬ばって、その美味しさに大歓声でした。ジュラバ屋では私の毛糸の帽子を気に入った店の主人から「交換してくれ」とせがまれる。「ちょっとセクシーな色柄ジュラバは夫のための室内用、木綿のもっさり系は外出用と使い分ける」と案内する生真面目なガイド氏は、私の「Which do you like?」に赤面しきり。彼は若い(実は学生)のにお腹ぷっくり、しかし白眼の部分がブルーの美しい目をしています。別のグループのガイドのようにみやげ屋へ誘導するでもなく、なかなか品のある気配り青年で、私達にはよくよく好青年の神様がついているようです。
 ピアニストその夜レストランでは私達がロビーに足を踏み入れると突然「オリビアを聞きながら」や「愛の賛歌」が聞こえてくる。私たちに話しかけてきたピアニストは、クロード・チアリさんの友人とかで、北海道で1年演奏をしていたと懐かしそうでした。ディナーを済ませ、明日の旅立ちに果物を失敬して部屋に戻ると、窓からはメディナの美しい夜景が見渡せ、随分歩いたもんだと改めてその広さに感心しました。高い部屋料金ではありましたが、それだけの価値は十分ありました。やれやれ

ペンシル移動中の街道沿いでたくさんのドアに描かれたドアのデザイン。日干しレンガの家々、メディナの中の迷路を飾るドアのデザインには、単純な柄から複雑なもの、立派なものなどいろいろあります。どうも「魔よけ」の役目をしているようです。
デザインは日本でいう家紋ではないかと思いますが、怠けていまだに未確認です。
ドア
よくあるデザイン
ドア
すこし手のこんだデザイン
ドア
泥棒もてこずるしっかり材質
ドア
鋲打ちの立派なドア
ドア
落書き満載
ドア
かなりくたびれたドア

さあカサブランカに戻って、帰り支度です

ペンシル

2月16日。昨日スークで購入のジャムとホテルディナーで失敬したオレンジ、駅売店のフランスパンと水をひっさげて列車に乗り込み、午前9時45分、フェズを定刻発車した。列車はコンパートメントです。つまり片側通路のガラス張り客車に前後長シートに4人づつ計8人が座れるタイプ。私達の前に、こわ〜い系のお兄さんが入ってきて一瞬ドキ!今さら座席移動も出来ず緊張して座席にはりついていました。ところがその彼がサングラスをかけた途端に「キアヌ・リーブス」にヘ〜ン・シンしたのです。

キアム・リーブス
サングラスの青年
婦人
スケッチのモデルになった婦人
キアヌ青年が降りた後、年配の婦人が「ジェームス・ボンド」とにっこり笑いました。人によって好みはあります。4時間15分の乗車中に乗客が入れ替わり立ち代りして、黒人男性、アラブのサラリーマン風と征服軍人、若い女性2人組とさまざまな人間模様が展開し、なかでも愉しかったのが、車内でアラブ風スカーフのかぶり方を教えてくれたボンド婦人とラバトの学生。スカーフ似顔絵をスケッチをさせてもらったのですが、ジュラバの前にある刺繍をしっかり描いてと指示がありました。柄に家系とアイデンティティが表現されているのかもしれない。モデルのお礼に小さいプリットのりを差し出すと、アイラインを書く墨のようなもの(LKHAL)がお返しにきました。ほりの深いアラビックなら綺麗だが、私の目にはただの狸みたい。学生はさすがに若いK嬢に関心を示し、メールアドレスを交換して記念に香水を渡していました。結局その香水は後年に少々問題の種となりましたが、そのときは知る由もなく別れを惜しみました。フェズからカサブランカへの車窓には、カサブランカからマラケシュへの沿道と全く違う、緑豊かな土地が延々と続き、ひたすら私達を日本へと押しやります

ペンシル 到着時と同じカサブランカのホテルに荷物を投げ出し、最後の夜を愉しむことに。美味しそうなパン屋で若い女性二人連れに声を掛けられ、「メル友になりた〜い」と言うのでアドレスを交換したが、帰国後交信は出来なかった。二人は姉妹で、夕食に自宅へ来て!と誘われましたが、明日の早朝出発であり、家も遠く、今夜はぜひBar Casablanca(映画カサブランカではRick's Bar American)でジャズを聴きたかったので、丁重に断りました。来年の姉の結婚式に列席してと無理を言う。たしかに親日的なお国柄であり、実のところママ手作りのタジンをいただきたかった。残念無念。
バー 黒人ミュージシャンのジャズピアノにしばし至福の時間をすごした。写真は演奏の合間、休憩タイムに許可をもらってピアノのそばでK嬢に撮影してもらったもの。右上の小さな画像は日本の相撲ビデオの上映モニタです。2週間着たよれよれジュラバも健在です。途中何人かのツアらしき中年日本女性の団体がどやどやとはいってきて、いや〜日本の旅行社のプログラムの組み方はすごいといたく感心する。相撲ビデオ上映も納得しました。記念にBarのビール瓶を頂きHotel HYATTからちょっと怖い街を小走りで帰る。さていよいよモロッコともお別れの時がきた。このまますんなり帰国できないのが私達の旅。今度もやはりトラブルが・・・・

ペンシル 空港にてあらら。荷物検査の設備も出国手続きのカードの記入台も見当たらない。空港税が不要なので「そうか、チケットあるからいいんだ」と勝手に判断したのがいけなかった(そんなはずないのにね)。さぁて並んで待っていると後ろのフランス人男性が「ラストコールだよ、急がなきぁ」と教えてくれる。見れば手にはカードが。「あらまあ」と係官に誘導されて小さな事務所に飛び込み「用紙がな〜い」「赤ペンしか持ってな〜い」と叫ぶ。結局事務担当者が、私たち2名分と先客の外国婦人2名分の出国カードを急遽作成して、ぽぽんとスタンプを押して「早よ行きや!」と背中を押すように追い出す。私達が最後にはならなかったが、30分遅れでフライト開始となった。やっぱり空港の運用システムがわかりにくいのではないかと思います。しかしツアーならこんなドジは踏まないのに・・・と思うのだが、やっぱり愉しさのレベルが違うのです。インドを出る時はいつも鼻水ものですが、今回はあまりにも充実していたせいか「愉しかったね」の連発に、お別れセレモをやり過ごすことが出来ました。k嬢とのこんな愉しい旅もこれが最後だと思った。Good bye Moroc!

後日談あれこれ

ペンシル

結局K嬢は2004年秋の時点で、4回目のモロッコ旅を終えていた。満月の砂漠の写真が撮れるまで、続けると語る。4回を通じて、この2月の旅が一番よい青空だったとも言います。私も映画「クンドゥン」や「シェルタリングスカイ」「最後の誘惑」をもう一度見直してみると、そうそうあんな風景だったと思い出されます。「シェルタリングスカイ」の原作者のアメリカ人ボウズ氏は、モロッコから帰れなくなり死ぬまで過ごしたという話は有名です。帰れなくなる日本人も勿論いるでしょう。その気持ちよ〜くわかります。サハラ砂漠の写真はネット上にもたくさん紹介されていますが、とにかく砂漠はそそられる被写体であることは間違いありません。帰国後カメラには土産の砂が入り込み、点検に1700円、修理代に9600円もかかってしまいました。カメラにご注意

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