ふらり・ふら〜り旅ごころ

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1998年11月

ペンシル

ダラムサラ! いい響きでしょ。この感触だけでまず「行くぞ」ときめてしまったインド北部の山の街。1998年、いつものようにサールナートの後藤j住職にお逢いした後、さあぁ今年はどこへ行こうかな?ボンベイは英国統治時代の立派な建築がどっさり。ゴアはかつてのヒッピーの夢の跡などと{地球のあるき方}をぱらぱらと探っていたら、このページに目がとまった。ほかにレーという街も薦められたが、結局語感の良さに軍配があがってダラムサラに・・・。ダラムサラと聞いても何処?という反応が普通だが、「ダライ・ラマ」と言えば「ああチベットの?」と返ってくる。そうダラムサラはダライ・ラマ14世の亡命先である。ダライ・ラマがチベットの法王であることは知っていたが、私が訪ねてゆける身近な存在であろうとは、さすがに思いおよばなかった。しかし遠い。デリーから北に500キロ。うーんおよそ大阪〜東京間か。標高1800メートル。バスで10時間と書いてある。行ってみるか。
 以前住職のお寺で逢った、絵に描いたようなシティボーイのMr.Ajayが、ちょうど帰省中で「デリーの旅行社に勤めている」という。相談したところ、タクシーをチャーターすればと提案する。またぼられるなあ。余談になるが、Mr.Ajayは日本映画「プライド 運命の瞬間」の撮影時、スタッフの通訳をしたと自慢していた。彼にはその後のことなど承知したことではないが、題材が題材だけに物議をかもした作品ではあった。  彼は少年時代からお寺に出入りして、しっかり日本語を話す。どうも日本からの若い女性旅人と話をしては上達したと、私は睨んでいます。そうなんです、会話の上達には、ボーイフレンドやガールフレンドを見つけるのが一番!

ペンシル

今の私にとっては住職の教え子であり、安全といえば一番安全な依頼先ではあった。結局行きたい気持ちと安全と残りの時間を考えて頼むことにした。これをきっかけに翌年も訪ねて、ダライ・ラマ14世にはまってしまうことに・・・・。バラナシから初めての利用「SAHARA」エアでデリーに移動した。リッチすぎる旅に少しひるんだが、ダライ・ラマ14世に逢える期待で胸がいっぱいになりました。行けばすぐ会えるような気がしたのです。
 さて午後5時デリー発10時間の夜行ツアーに出発した。予算オーバーのためCITIBANKへルピーを引き出しに行く途中、デリー名物「脅迫靴磨き屋」にふっかけられる。靴に牛糞をかけられ、手早くふき取り、勝手に演じておきながら「きれいに磨いたぞ」とお金を請求する。アメリカで一時流行した、ケチャップかけスリと同じ手口です。来たぞきたぞとばかり、思い切りヤツの足を蹴飛ばして退散!参ったか。靴は幸い履きくたびれたスニーカーなので、被害は最小で済んだ。旅行には履きなれた少し汚れた靴、服は軽装。かばんはブランド物は避ける。出来るだけ狙われないための私の旅スタイルです。
 ここでちょっと話はそれるが、インドでは不思議と言い争う大人をみかけないのです。数年前、バラナシのガート近くの露天商の店先で大男ふたりがなにやら大声でわめいていました。もちろんヒンディー語はわからないので事の真相はわかりませんでしたが、珍しい光景でした。

ペンシル

さていよいよデリーを後に一路ダラムサラへ出発。話はそれるが、ダラムサラはガイド本によっては「ダラムシャーラー」と呼ぶこともあります。私自身は惚れた弱みでやっぱり「ダラムサラ」が好きです。以前パスワードに「DHARAMSALA」と使ったほどです。ドライバーはMr.Manshinという30歳くらいの、まじめが服をきているような人でした。途中小さなレストランで夕食とトイレを済ます。とにかくインドで困るのはトイレ問題です。ややきれいな場所ならもうとにかく済ませておくこと。へたすると野原の真ん中で、夜なら道路わきの茂みで・・・・なんてこともあります。真っ暗でどこをどう走ったのか全くわからないまま、12時間をかけて午前7時頃ロワー・ダラムサラ(下の街)に、さらに20分くらい上ったマクロードガンジに到着しました。標高1800メートルの山の街です。ホテル探しに少々手間どりましたが、HOTEL BHAGSUに荷解きしました。ここで出逢った人と、それはそれは至福と心残りの旅を経験しました。 Hバグス

ちょっと怖い系の中年男性に声をかけられたのは、ホテルのフロントでディスカウントの交渉中のこと。「お困りですか?」と。すらっとした若い男性も一緒でした。何者か?私の見たところ建設関係かなあ。「まあまあ、朝食でも」と庭でご一緒しました。「不景気の日本を見限って、こんな所へ開発事業ですか?」といぶかる私を面白がって正体を明かさない。やっと判明したのが、実は写真家だそうで、著作本を見せて頂きました。執筆もされているようです。ダライ・ラマ14世を撮影した写真集もあるそうです。話が進むにつれ、その穏やかな物腰にすっかり魅了されました。

ペンシル

彼はインド・チベット25年のベテランで、もうすみからすみまで知識いっぱい。話が楽しくて、深くて、こんなインド旅行は二度とないだろう。貧乏旅行もそれなりに有意義ですが、たまにはこんな素敵な経験もあるのです。だから個人旅行はやめられません。若い男性は書生さんということでしょうか。書生氏は水産会社を辞めて、日本の魚事情を図鑑風に出版する計画だとか。その後どうされたのかなあ。完成したのだろうか?そこへ今度はこれまた綺麗系の若い女性が現れて、写真家氏と打ち合わせの様子。とろりとろりと少しづつほぐれてゆくダラムサラ事情。チベットの過酷な運命に、ダライ・ラマ法王を信じることと、祈ることで日々を紡ぐ難民の人々。そして穏やかな笑顔に隠された苦悩を、その時点での私には到底理解できなかった。しかし写真家氏のおかげで、このダラムサラで難民救済のプロジェクトの存在を知ることになります。さっきの綺麗な明美さんや、Mr.AJAYが「困ったらこの人を訪ねて」と住所を持たせてくれた直子さんとも出会います。写真家氏が紹介してくださった魅力的な女性がその直子さんでした。
 Oh!私はやっぱりダライ・ラマに導かれて来たのだ。決して地名の響きだけではるばるやって来たのではなかったのです。友人はよく言います。「君はホント強運の持ち主!」と。この強運はこの先もっともっと発揮されてゆくことになります。

タルチョー
(上のルンタは素材として利用していますが本当はピンクではなく灰色がかった白です)

ペンシル

直子さんのアパートは、ホテルから歩いて15分くらいだったと思います。2階の玄関前廊下から広い山と谷が見える眺望のいいところです。部屋はワンルームマンションの少し大きい間取りでした。急に入ってきた珍客にきっとびっくりされたと思いますが、穏やかな笑顔で迎えてくれました。先客には日本人男子学生もいました。人を集めるオーラがあるようです。学生は写真家氏をみるなり、突然夢心地の眼差しで「逢えて嬉しい」と。事情がうまく理解出来ていない私は座って3人の話を聴いていました。常識人ならそこで有名な写真家だと直感するはずなのに、鈍感な私は「私はこういう暮らしができるだろうか、いつまでも旅人で済ますんだろうな」などと考えていました。直子さんは、今地方に出かけているチベット人のご主人とかわいい女の赤ちゃんの3人暮らしです。サールナートで仏教哲学を勉強中のご主人と出逢って結婚されたそうです。苦労の多い生活であるはずなのに、やさしい笑顔に心がほぐれます。アパートの近くで建設中の「ルンタ・ハウス」のレストラン部門の運営を任されて行くようなお話でした。

山と谷
はるかな山あい
ルンタハウス
建設中のルンタハウス
 このルンタ・ハウスが、ダラムサラにおけるチベット難民の救済活動「Lung-ta project」とチベットで投獄された経験をもつチベット人たちのNGO「グチュスムの会」の共同運営施設となっています。1998年の今は、まだ建物も建築中であり、レストランも開店前です。直子さんはメニューと食材に頭を痛めている様子でした。メニューについてほんの少し提案をしました。そして先ほど登場の明美さんは「Lung-ta project」のスタッフであり責任者のようです。こうしてだんだんと私の、人と精神のネットワークがひろがってゆきました。

ペンシル  さてダライ・ラマ法王にはどうすれば逢えるのでしょう。外国人のための謁見は登録制です。マクロードガンジにあるSecurity Officeで確認しますが、私のわずか3日滞在では無理でしたが、その代わりに写真家氏からアメリカ映画の「クンドゥン」(監督=マーチン・スコセッシ、脚本=メリッサ・マシスン、音楽=フィリップ・グラス)を観てはと薦めていただきました。小さな集会所のようなビデオシアターで、画像はやや貧弱な英語版でした。英語版というのがちょっと気に入りませんが、それでも風景のすばらしさは忘れられません。もちろんチベットで撮影はできませんから、広大な空と湖と乾燥した大地はモロッコだそうです。そこで後年モロッコへ旅してしまったミーハーであります。ビデオがでていますのでぜひ観賞してみてください。「セブンイヤーズ・イン・チベット」とはひと味違いますし、音楽がお腹の底へ、曼荼羅が目に染み込んでゆきます。話がそれました。結局法王はアメリカに出張中で、逢えませんでした。残念。。。。

  
新聞記事
朝日新聞の記事
クリントン
クリントン大統領と会談
 それにしても、わがドライバーMr.Manshinは何をして時間をすごしているのかな。写真家氏のドライバーと仲良く話し込んでいます。実は映画に二人を誘ってゆきましたが、実につまらなさそうでした。そりゃあインド人はミュージカル仕立てでないとノリが悪いから。すまない気持ちになりました。
 チベットからバスでインド入りした50代の女性Junkoさんと、ホテルの部屋で、深夜まで話し込みました。チベットのラサは中国人ばかりで、ラサの乞食はチベット人、ダラムサラの乞食はインド人だという。う〜ん確かに世界中からお金が法王のおられるダラムサラに集まります。迫害を逃れ法王を慕い、何日も何ヶ月もかけてヒマラヤを越えてインドに辿り着きます。将来を考え、明日のないラサでの子供の教育を心配して脱出させている親もいると聞きます。ダラムサラだけでなくインド国内にはいくつもの難民センターがあります。やっと辿り着いたときに収容する施設の前にいる人々は顔が殺気立っている。その後少しづつ落ち着いて、衣類や雇用を得て街に溶け込んでゆきます。ダラムサラのインド人乞食はカルカッタ(コルカタ)の路上生活者より余裕があるようにみえます。
 Junkoさんは働きづめだった自分にご褒美として、退職し、中国経由でここまで3ヶ月、この先3ヶ月の旅とのことでした。私の部屋に泊まるよう勧めましたが、深夜にも関わらずご自分のホテルへ戻られました。安全な街であることの証明ではあるが、自分とは違う旅のスタイルの私と、もうこれ以上の話はないだろうという毅然さに打ちひしがれました。寂しかった。法王のステッカーを買って、山を降りる準備にとりかかりました。
         
寺院
チベット亡命政府近くの寺院
法王
法王のステッカー

ペンシル ステッカーは、いつも旅行の時に持ち歩く皮の手帳のなかに貼りました。
大変お待たせしました。写真家氏をご紹介しましょう。松本榮一さんという、有名な写真家でした。帰国後、図書館で写真集や著書をいっぱい見つけ、あらまあ大変でした。ダラムサラに来ている学生がびっくりしたのも当然でしょう。しかし1998年の今は、親切で暖かくてインドとチベットに詳しく、チベット医学に関する著書の準備中ということしかわかりませんでした。松本さんからの紹介で、山を下ったところにある「Norbulingka Institute」へ行くことにしました。またしても名前に引きずられたようです。「ノルブリンカ」と声に出してみてください。綺麗な響きですねぇ。ノルブリンカはチベット・ラサ郊外にあるダライ・ラマ法王の夏の宮殿の名前です。素晴らしいホテルがあるから是非と薦められ、3日目の延泊はここに決めました。

ゲストハウス
ゲストハウスの家具
図書館
図書館正面
 ドライバーにもしっかり地図を指導してもらって午後に出発。ここの設計は、ルンタハウスを設計した中原さんという方です。パンフレットによると Preserving Tibetan Culture つまりチベットの文化を保存するプロジェクト施設です。ホテルは園内のゲストハウスです。質素だが工芸品のような家具がありました。
 到着後、看護婦ボランティアのYukoさんに2時間かけて館内を案内して頂きました。彼女はボランティアをしながらチベット語を勉強しています。広い園内は図書館、メタル工芸館、タンカ制作室、裁縫手工芸室、農園、学生やスタッフの宿舎など立派な施設です。なかでも水彩か顔料かわかりませんが、小豆色のチベット婦人の絵が非常に気にいりました。この絵も含めていくつかの絵がダラムサラにある「CHONOR HOTEL」の部屋に飾る予定だとか。難民である製作者たちは決して泊まることのない高級ホテルです。わけもなくちょっと複雑な気分ではありました。
タンカ
製作中のタンカ
エンジ色の衣裳
お気に入りの絵画
メタル工芸
メタル工芸
 Thanka Painting 室では横80センチ縦80センチくらいのタンカを制作中でした。
ネパールに行った時、買えたらいいなと思った曼荼羅がひぇーというくらい高かったことを思い出した。約1ヶ月かかって仕上げるのだそうです。それはそれは細かい作業です。アメリカからの注文制作中のMetal 工芸はちょいエロティックな男女体。シルクスクリ−ンのカレンダーなど。どの制作室でも若者の笑顔が素晴らしいです。夕飯は園外の屋台でチベットのうどんと餃子だけ食べて、明日の朝食に備えました。  夕刻ドライバーがシャワーを使いたいと言って来る。そうか、彼はいつも車中泊だったのです。朝食は朝焼けの空を眺めながらベランダでゆっくりと頂きました。
  
カレンダー
カレンダー制作室
朝日
ダラムサラの朝焼け
夕日
ダラムサラの夕日

ペンシル 1998年11月13日午前8時頃、ノルブリンカのゲストハウスへ寄ってくださった松本さんと書生氏の車と2台で、デリーへ向かうことになりました。私は今日の夜便で帰国の途につく予定です。延泊して翌日の夜便の危険性は、初めてのインド旅で体験済みのくせに、楽しい旅の続きの誘惑には勝てませんでした。まっ!いいか。後は野となれ山となれです。途中からは私の車に3人が同乗して、わがMr.Manshinの運転で快適なドライブとなりました。松本さんもMr.Manshinの運転は素晴らしい!と。初日の夜走った道は、結構険しい山道もあり、暗い道をぶっ飛ばしてくれたドライバー氏に胸キュンです。私が道すがら、窓からカメラを向けると黙って止めてくれたり、美しい景色に今日の遠足は満足満足。
 車中では、チベットのおかれている現状や、以前有名な学者や作家と旅したこと、書生氏ともチベットを旅したこと、カイラスという聖地のこと、それはそれはたくさんの話を聞くことができました。帰国後その著作本の数々で「あらまあ、もっと長く一緒だったらよかったのに」としきり悔やまれました。ダライ・ラマ14世のこと、側近者のこと、ポタラ宮殿のこと。ツアーでもなく、ガイドブックをなぞる旅でもない、まさに穏やかだが生き生きとしたインド・チベットを学ぶ時間が流れてゆきます。糖尿病の心配があるというのに、インドのスィーツに手を出すかわいい人でもあります。 

やぎ
山羊の群れ
少年
おしっこ中に失礼
歯医者
歯医者の看板
 軍事施設の近くを走行中、入れ歯の面白い看板が・・・・。歯医者でした。上空にはミグ戦闘機が。原っぱの陰で急ぎ用足しを。バザールでは茄子の値踏みを。
 デリーまであと4時間くらいの所でしたか。あたりは少し暮れかかっています。Mr.Manshinがいきなり猛スピードで駆け抜けました。松本さんの車は、ドライバーひとりと荷物を載せて立ちどまっているのが遠くに見える。「あらら、検問にひっかかった」 これゆえわがManshinは優秀なドライバーであることが証明されました。警官に賄賂を払わない限り抜け道はありません。カメラや取材メモは大丈夫なのか?多分私たち日本人を狙ったような気がします。ところがメインのかもはすり抜けて、若いドライバーが捕まってしまった。  松本さんは慣れたもので、大切なものはちゃ〜んと手元のリュックにありました。もし私と若いドライバーの組み合わせだったとしたら、今回もまた帰国が遅れたかもしれません。先の茶店で待っていたら、若いドライバーはやっと開放されて、500ルピーを支払ったと嘆く。しかし何も悪いことをしていないのに、何故罰金が必要なのか解せません。警官のサイドビジネスみたいなものだそうで、ったくタマリマセン!荷物は無事でした。
 さて午後10時発の飛行機に乗らなければ。松本さんと書生氏は、この後1週間ジャイプールへ寄ってから帰国とのこと。「マハラジャの王妃たちが愛した布」の取材だそうです。もし仕事を失くしてもよいなら、家族と別れる覚悟があるなら・・・・・このままジャイプールについて行ければどれほど幸せだったことか。こんな至福の旅をもう経験することはないだろう。私はといえばやはり今回もフライトぎりぎりに飛び乗り、トラブルもなく無事日本に帰りました。
 書生氏の計画はその後どうされたかしらん。2003年の今でも懐かしんで聞いてみたい衝動にかられます。松本さんの著書については図書館で(写真集は高価で買えませんが)、本屋さんで、手元で楽しんでいます。立派な作品を世に送っておられます。巷にはインド・チベットに関する書籍はもちろんたくさんありますが、いろいろ教えて頂いた彼のおもな作品を、思い出としてここに掲載し1998年のインド旅行を終えましょう。チベットやインドをもっと深く知りたい方、ダライ・ラマ14世に関心を抱いた方に是非お勧めします。

松本榮一氏の作品紹介

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