ふらり・ふら〜り旅ごころ

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フラミンゴに遭えるかも?とナミビアへ飛ぶ

 
シンプル地図

ナミビアから南アフリカへ
(くたびれた地図)
国旗
  ナミビア共和国の国旗

国旗
 南アフリカ共和国の国旗

ペンシル どれほどのフラミンゴに遭えるかわからないが、動物園ではないロケーションで見ることができればいいなぁ・・・。ナミビアは日本の2.2倍の国土があり、「南西アフリカ」と呼ばれていたドイツ領から1968年に独立した国で、有名な赤いナミブ砂漠がゆえんでナミビアと命名された共和国です。数年前モロッコで砂漠を経験していたので、今回はフラミンゴ見物に挑戦!することにしました。が出発前は考えていなかったので手元に資料がない。とりあえず国際線でボツワナのマウン空港からナミビアの国際空港ウィントフックへ向かう。空港のインフォメーションでホテルを探し、ランド(南アフリカの通過。ナミビアドルは南アでは利用できないため)に両替を済ませ、乗り合いタクシーに乗り込んだところで倒れ込んでしまった。どうも旅の疲れがドドッと出たようです。人数が集まり次第発車する仕組みのタクシーだが、ドライバーは気の毒がって私一人を乗せホテルへ届けてくれました。「Hotel of Motown」はアメリカによくあるモーテル風のホテルです。部屋は広いがトイレは共同。食事は自分で調達。つまりレストランはない。困ったことに街の地図がないので、このホテルがどのあたりにあり、スーパーやレストランが近くにあるのか?などの情報が得られない。今夜は断食と諦めたが、持ち帰った機内食のパンを思い出して紅茶とともに食する。このような事態に備えて持参の携帯電熱湯沸器が、実に役立ちます。しかしなんか惨め!とにかく今夜はすぐ寝ることに。やれやれ。

ペンシル12月17日の朝は、昨日の疲れが嘘のように元気いっぱいで目覚めました。さてフラミンゴに遭うにはどうするのか。空港でもらっておいたホテルリストと一泊分の着替え、洗面具を持って、街中のインフォメーションへ。タクシーで訪ねるとあららこの町は結構大きいんです。しかし街中には用はないので、再びタクシーでミニバス乗り場へ。12人乗りのバンタイプで、集客次第の発車となるので、近くのスーパーマーケットで朝食を探す。30分ほどでスタートしたが、メンバーの中に若い人が多いのは、どうもクリスマス休暇で学校から実家へ帰省している高校生のようです。バスの到着と同時に家族が大はしゃぎで出迎えている。小さい弟や妹らしき子供が、お兄ちゃんに抱きつきまとわりついている光景が微笑ましい。高級住宅街を過ぎ、ややスラム化している村を通過して、ナミビア第2の都市スワコプムンドに到着した。ミニバス停留所は街のはずれにあるらしく、都市という印象は持てない。所要時間は2時間くらいだったと思う。目指すお気に入りのホテルとフラミンゴは、ドライバーによるとここからさらに南へ30キロ行くのだというので、料金を追加してワルビス・ベイまで行ってもらった。追加料金は足元を見られたのか、はじめの料金と同額近くを要求された。つまり2時間と20分が同額なのだ。しかし乗り合いにひとり乗客のわがままタクシーとなったのだから結果的には妥当だったのかも。無事到着し、しかも目指すホテルに横付けしてくれました。「おおきに」

ペンシル 「Lagoon Lodge」の女主人は気の毒そうに「今夜はFullなんよ。この湾沿いを歩いて10分くらいにホテルがあるから行ってごらん」と助け舟を出してくれました。セキュリティ万全の超高級住宅の裏が湾沿いの散歩道になっており、のんびりぶらぶら歩いているとホテルらしき建物が。コートヤードホテル一軒の塀の絵が面白くて、決定!どうみてもこの一帯は治安が悪いようには見えないのですが、セキュリティ完璧のバーグラバー門扉つきです。門扉の開閉センサは鍵と一緒に持って、各自で出入りします。ホテルのこんなシステムは初めてです。チェックイン後、早速フラミンゴを探しにラグーンへ出るがしょぼい数羽しかいない。湾を赤く染めるフラミンゴとまではいかないにしても、ここここんなはずじゃ・・・・・。肌寒い夕刻の風に閉口し、今夜は「The Courtyard Hotel Garni」で、気持ちよい大きな部屋とスタッフの対応に満足満足。翌朝もう一度ラグーンへ出てみる。ワ〜ォ!一面真っ赤にとは言いがたいが、たくさんのフラミンゴがのんびり羽を休めているではありませんか。それならそれで早く言ってよね。胸が高なり自然と歩みが小走りになる。来て良かった。人っ子ひとり居ない海岸でマイ・フラミンゴを愉しんだ。

フラミンゴ
しょぼいフラミンゴ
フラミンゴ
高級住宅街裏手のラグーン沿いに・・・
 ウィントフックのモーテルにバゲッジを置いたままだし、「西海岸へ行ってきま〜す」とも告げていないので、今日はこれで帰ろう。ここはヨーロッパからのリゾート観光客が多く、国際線があるという。バゲッジを持参していれば、ここワルビス・ベイからケープタウンに直行できたのだ。う〜ん失敗した。今さら仕方ないが、残念である。予習を手抜きするとこんなことになります。ウィントフックまで1時間の国内線で戻ることにしました。ホテルのスタッフが、エアチケット購入のための旅行社への立ち寄りと、市内観光をしながら空港までのドライブに誘ってくれました。小さな街に似合わない大柄な中年男性で、でっかいパジェロにちっこい私を乗せ、助手席に座るたび「シートベルト」といいます。ゆっくりのんびり走るので立派なパジェロもパワフル持ち腐れの感あり。かなりの安全運転です。通りを行き交う人々が「やあ!元気かい。」などと声をかけます。きっと後であのおばさんは誰だい?などと質問されていることでしょう。さあ買い物も、見学も済んで一路空港へ。
 途中「そんなにフラミンゴが見たいのかい?」と、砂漠のなかの湿地帯に生息する、とっておきのフラミンゴのいるところへ寄り道してくれました。
フラミンゴ3
湿地帯に生息する、私のカメラには収まりきれないフラミンゴ1
フラミンゴ3
湿地帯に生息する、私のカメラには収まりきれないフラミンゴ2
「フラミンゴよ、さようなら」と望遠のきかないカメラに収めました。わざわざフラミンゴを見に来た東洋のおばさんに精一杯のサービスをしていただきました。しかしお礼は受けていただけません。「暇だから」たしかに暇そうだけど・・・。残っていた竹とんぼを差し出し握手をした時、不覚にも数滴涙がこぼれました。ザンビアを出てから日本人には全く遭わず、疲れていたせいかもしれません。見返りを要求しないサービス精神に大きなゆとりを感じました。ワルビス・ベイでの滞在はこれで終わり。、砂漠の中の空港から飛び立った眼下には、赤い砂漠が延々と広がっています。
砂漠の町
砂漠の中の小さな国際空港
砂漠の町
ワルビス・ベイの町から空港への道路沿い

ペンシル ウィントフックの国内線エアポートのサービスカウンターの婦人が、ホテルまでのタクシーを格安で手配してくれた。Mr.Koraという品のよい青年で、私の小ぶりリュックを指して「荷物はそれだけ?」と聞く。「うん、バゲッジはホテルの部屋で寝ている、昨日から」と答えると、白い歯を見せて大笑い。またしても気持ちのよい一日を過ごしました。
 ホテルの横に大きなトラックが停まっています。サファリツアーで乗った4駆仕様の、ただただ大きい車です。20〜25人は乗れそうです。聞くと団体旅行中の若者たちで、食糧を持ち込んで宿泊し、研修室のような部屋でテーブルセッティングし、ビュッフェスタイルでわいわい騒ぐそうです。欧米の旅行者はなかなか合理的というか面白いです。そうそうマウンの「Sedia Hotel」の裏庭でも大きなバスのような車を見ました。庭で炊事したり本を読んでる人がいたり。大地がデカイと対応する車も想像以上のものが用意されているんですねぇ。残念ながら日本の狭い道路にパジェロが、走るだけでも結構おかしいのに、アフリカでは何処へ行ってもよく似合う。さあ明日はケープタウンへ移動だ。タクシーキャッチにまたまた傑作事情が・・・・。

最後の訪問地ケープタウンへ

ペンシル アフリカ滞在も残すところあと4日間。思いがけずザンビアに長逗留して少しスケジュールが詰まってしまったのと、年末ぎりぎりに帰国というのもちょっと家族に悪いなあなどと、帰国日をくりあげたのが原因ではある。が元気に最後を締めくくろうではないか!チェックアウトを済ませて通りで空きタクシーを待つこと30分。どのタクシーも老若男女の乗客で満杯。観察すると、近くでひとりが下車するのだが、残った人々を乗せて再び走り出す。降りた乗客はすたすたとどこかへ向かう。つまり数人が乗り合いしているのだ。たまたまの乗り合いか、毎日の契約を結んでいるのかはわからない。が自家用車を持てない勤め人たちがあみだしたシステムのようです。困ったなあ。そこへオンボロタクシーが停まった。カラードとおぼしき若い女性が降りた。しかし中には黒人の婦人と幼い女児と青年が残っている。ドライバーが私ににっこりと笑いかけた。"うん?なんだ。乗せる気だな"と直感し、「インターナショナルエアポートへ行けるかな?」と聞いた。この時点でもう午前8時10分。フライトは10時30分。「200ランドだぜ」という感じ。タクシー青年もまもなく降り、走りながら少しずつ疑問が解けてきた。若い女性は他人で、あとはドライバーの家族4人が同乗していた。青年と若い女性は仕事場へ。では婦人と幼児はどうなってんの?「空港へ行く前に立ち寄りたいがいいか?」奥さんは途中のお屋敷のメイドさんで、その家まで送り届けると言う。でも今日は奥さんの誕生日なので早く帰るつもりだ。ますますわからなくなって来た。
 つまり私を空港へ届けた後、また奥さんを迎えに来るそうです。???ではこの幼子はどうするの?一緒に空港まで行くと言う。唖然。車上のタクシー表示ランプを取り外したので、私の分はアルバイトのようだ。車は会社から借りているとのこと。やれやれ。しかし幼子は慣れた様子で、後部座席ではしゃいだり、ジュースを飲んだりして時間を過ごしている。オンボロ車を時速110キロでぶっとばして9時過ぎには到着したくれた。なかなか合理的な商売ではある。
 飛行機はトラブル発生で、やっと11時に離陸した。猛スピードの疾走はなんだったのか。待合室から機体まで暑い中を4分くらいゾロゾロ歩くのだが、土地はいっぱいあるんだから、バスを用意すれば? 雇用促進になるし、経済効果もあろうが・・・などと八つ当たりする。眼下にはやっぱり赤い砂漠が広がっていて"ナミブ砂漠ツアー"に参加すると、あのへびのような一本道を走りぬけるのだろう。

ペンシル 南アフリカ共和国は日本の約3.2倍の面積を持ち、公用語は英語をはじめ11の言語があります。オランダ・イギリスの統治を経て1961年に共和制に移行し、1991年アパルトヘイト法案廃止までの長いアパルトヘイト廃絶運動を展開します。1994年マンデラ政権の成立。アパルトヘイトについては映画「遠い夜明け」ほか実話に基づく書籍も多数あり、現代日本人には到底理解不可能な政策であり、法案廃止がほんの10年ほど前です。マンデラ氏は今でも偉大な英雄です。アパルトヘイト政策の廃止を嫌った人たち、つまり旨みのなくなった白人たちが、ここケープタウンからヨーロッパへ移住したことで一時経済が落ち込んだとも言われています。なるほど街は完全にヨーロッパです。旅の刺激は半減しますが、人間の浅はかさと向き合ういいチャンスでした。 >p>陸橋
 ケープタウンで再会したTomokoさんの案内で、人種差別のため通り道が3本ある陸橋を渡りました。たとえばかってのアパルトヘイト法案は、この決められた道を歩かないと白人でも罰せられるというものだったのです。黒人が間違えればもっと悲惨な現実があったわけです。帰国後ネットで関連資料を読みましたが、当時貿易のため南アフリカを容認した日本人には、「名誉白人」と称された不名誉な時代があったそうです。ケープタウンではしゃいでいてよかったのかなぁ。
 さあ気を取り直して、街へ入りましょう。ケープタウンの空港インフォメーションで勧められた「Tuder Hotel」は、偶然私自身も気になっていたホテルだったので嬉しかった。★★ながら個性的なアンティーク感漂う建物で、品のいいマダムもスタッフもgood!でした。どの国でもそうですが、経営者は白人、下働きは黒人です。この地ではカラード(混血)とインド人(サトウキビ労働者としてインドから連れてこられた)というカテゴリーもあります。このホテルは朝食のみのレストランなので、夕食は向かいのPark Hotelの1階で頂く。こちらのスタッフもgood。

ペンシル 翌日はホテルで勧められた「ケープ半島Full Day Tour」に参加。ホテルまでピックアップにきてくれて9:00〜17:30まで遊んでくれるというもの。最後のホテルから参加のメキシコ中年カップルは大幅に遅刻。なおかつ夫人は香水ぷんぷん、ばか厚化粧でもうたまりません。おまけに座席が夫と前後しているので、ガイドに「席を代えて」と我がままを言います。しかし観察していると、二人は乗車中はほとんど寝ている。おまけに手をつないで。まあ仲良きことは美しきかなではありますが・・・。ガイドは参加者の国名をつげ、おまけに英語が心配な私のために「ゆっくり案内します」などと、余計なことまで言います。カリフォルニア中年ミニスカ女性は、雑誌の旅記事を書いている風で、やたら写真を撮るために車をとめます。しかし愛嬌のある女性でした。もうひとりのカリフォルニア中年黒人女性は私の好きないでたちで、彼女はミニスカ女性の態度を「もう、うんざり」と、声に出さず私にウインクで同意を求めます。納得

石象
浜辺にある象のおしりのような石
石ペンギン
ペンギンにそっくり
ケープポイント
CAPE OF GOOD HOPE
ダチョウ
ヘルシーと只今人気上昇中
アロエ
5mの特大アロエ
ケープポイント1
やってきました喜望峰
 全員で11人のコースは西海岸を南下しながらあしかの生息島へ舟で渡り(大波にふらふら)、よちよち歩きのペンギンを間近で観賞(かのミニスカ女性が撮影に夢中で、風でスカートがまくれ上がって黒パンツ丸見え。あわてて背後に駆け寄り私が風避けに)し、もちろんケープポイントでは「ああ、とうとう来たのだ」と感傷に浸る。ダチョウに挨拶、5メートルはあろうかというアロエの大木など、熱心なガイドのおかげで時間オーバーの午後19時にホテルへ戻りました。向かいのホテルでクスクスチキンカレーを注文。私にはぴったりの分量で、スタッフが「おいしい?」「もちろん」「愉しんでね」と気持ちよい応対をしてくれます。一人ぼっちで来る私への同情かもしれません。

ペンシル翌朝午前中は花の咲き乱れるカンパニー・ガーデンズ、ケープ大学、現代美術も充実の国立美術館、大聖堂、イタリア様式の立派な市役所へと散歩しました。この市役所は1990年、ネルソン・マンデラ氏が出所した時に、バルコニーからスピーチをした建物です。午後はホテルを移動しました。若者達がクリスマスイベントで明け方まで大騒ぎで、すさすがにうんざりして3泊〜4泊目はテーブル湾に面した商業施設ウォーターフロント近くのホテルへ。ホテルに荷物を置き、ぶらぶらとウォーターフロント方面へ歩いていると、真っ赤なダブルデッカー車が停まりました。そばを歩いていた女性2人連れがいきなり「このバスに乗ったら?楽しめるよ」と勧めてくれました。このバスが何者かさっぱりわからないまま背中を押されるように乗り込む。循環しているので何処から乗ってもいいらしい。2階で案内嬢が説明している。パンフレットには"Topless Busによる2時間の市内観光"と書いてありました。2階は眺めはいいのですが、アフリカの太陽にさらされ肌がひりひりします。コースの前半は、私が午前中散歩した地域をめぐり、後半はテーブルマウンテンのロープウエイ乗り場までゆき、ウォーターフロントへ帰ってきました。結局テーブルマウンテンは濃い霧のためロープウエイは運休でした。午前中はすっきりくっきり見えていたのに・・・・。

テーブルマウンテン
すっきりくっきり朝のテーブルマウンテン
テーブルマウンテン
雲に覆われた午後のテーブルマウンテン
 その日のナイトクルーズの船内で、インド人家族から話しかけられた。私がひとりなのを気遣ってくれている様子だった。おばあさんと初老の夫婦、その息子さんという構成でした。ケープタウンへは観光だそうで、私は懐かしさについうっかり「インドが好きで何回か行ったのですよ」と話してしまいました。あっ、南アフリカ在住のインド人には、その昔奴隷としてダーバンのサトウキビ畑の労働者としてインドから連れてこられた人々が多いのです。案の定「おばあさんの時代にアフリカに来て、僕はインドを知らないのです」と青年は言った。なんて軽率な・・・・。自分にうんざりです。重い気持ちで下船しました。 翌日はウォータフロントにあるモール街で新しいデザインの工芸品や美術品の店を冷やかして歩きました。ジンバブエでもそうでしたが、アフリカのデザイン力には驚かされます。力強く活気にあふれ、説得力があります。もちろんブロンズではありませんが、気に入りのお土産を見つけました。高さ27センチ重さ550グラムの像です。
立像
SAFIYAさん
落書き
電車の落書きも大胆
看板
おなじみの商標も南アではこうなる
この立像をはじめとしていくつかのシリーズが物語り形式になっているようです。彼女の名は"SAFIYA"で副題に"her heart is pure"とあります。ひょうたんの実で作った袋にお酒でしょうか、嫁に行ったねえさんのビレッジへ届けにゆくの。と付属のラベルに書いてあります。なんとも魅力的な作品です。自宅の食卓の藍染テーブルセンターともしっかり馴染んでいます。
 またまた残念な目にあってしまいました。ロベン島へ渡るボートの予約ができません。この島はあのマンデラ氏も投獄されていた、アパルトヘイト時代の黒人専用政治犯刑務所島です。1996年に閉鎖されたあと、今は島全体を博物館として観光化され、1999年には南アフリカ最初のユネスコの世界遺産に登録されています。チケット売り場で「明日は日本に帰国します。なんとか乗せてくださ〜い。キャンセルがでるんちゃうの?」と懇願しても「No!Full」の一点張りです。もっと早く行けばよかった。バゲッジ

ペンシル 残念をいくつも残して12月23日ヨハネスブルグ、香港経由で24日帰国しました。こんな大きな旅行はもうできないだろうなぁ。10年以上も付き合ってくれたバゲッジは、コマの皮が破れ、スタンドの足がへちゃげて、すっかりくたびれています。ありがとう。
 退職時、Yokoさんから頂いた短歌を、お守り代わりにリュックに入れていたおかげで事故もなく、無事South Of Africaの旅を終えることが出来ました。感謝を込めて・・・

  うるむ目に びるの谷間の 夕やけは 君との語らい そめて優しき

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