ふらり・ふら〜り旅ごころ

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1994年〜1999年

ペンシル 1994年はツアー参加の2人旅。後藤住職と出逢った年の旅の思い出話を始めましょう。メンバーは4人で現地ツアーコンとデリーで待ち合わせでした。同行のK嬢とは同じ職場でつい3ヶ月前にあったばかり。会議でたまたま隣り合わせになり、自己紹介後「インドが好きなんです」の言葉で意気投合し、このあともう一度インド・アメリカ・モロッコと旅行した仲間です。彼女もかじっていた趣味の写真を、プロは無理でもセミプロにはと本格的に始めるきっかけになったのでは?

そしてこの頃インドでは、久しぶりに聞くコレラが流行の兆しとニュースが報じる。テレビで現地のマスクインド人やハンカチ婦人を映していた。マスクのインド人はますます神秘的な瞳であった。つい最近ではSARS。まだ流行初期で、行くか行かぬか迷ったあげく出発した。しかし当時の旅行社はよく催行したもんだ。添乗員なしだからか?まさかそうではあるまいが、今でも不思議に思う。夜に到着したおかげで、マスクインド人にはあわなかったが、翌朝ホテルを出て散歩に出るとやはりちらほらといました。女性の姿はあまり見かけない。それよりK嬢の歩く姿のほうが面白くて笑い転げました。牛の糞をよけて歩くのでダンスをしているように見える。しかし3日目以降はのっしのっしと大地を歩いていました。

写真下左:街中でのさばる牛たち 中央:バラナシ郊外の夕焼け 右:列車内の巡礼者
のさばる牛バラナシ郊外の夕焼け巡礼者

この旅行では初めてインドの鉄道にのりました。総延長距離世界一を誇るインドの鉄道は堅牢だがずいぶん汚い。乗車すぐにそこらを触ると手が真っ黒になる。トイレも我慢するほうを選ぶ。冷房つき2等寝台車にしてこうである。バックパッカーは3等車で30時間も40時間も鉄道で移動しています。当時のインド旅行の必需品は、懐中電灯(よく停電する)・トイレットペーパー・携帯用ウエットティッシュ・ポリ袋(インド製はやわくすぐ破れる)・ボールペン(物々交換に利用できる)・100円ライター(これもいざの時売れる)・特にひとり旅には鍵つきのワイヤー(日本のように荷物をちょっと見ててください、とは言えない)・ゴムぞうり(そこそこのホテルでもシャワー室の床が汚い)

ペンシル アグラ・ジャイプール・デリー観光とサールナートでの住職との出会い。地方の国道沿いの茶店で働く子供たち。学校へ行っていないという。双眼鏡を覗かせてあげると目をパチクリ。この子が大人になって、カメラや双眼鏡も自由に持てる時代がくればいいのになぁ。竹トンボで一緒に遊び「あげるよ」というと嬉しそうに、きれいな瞳と歯をみせて笑った。彼らはインドの人口で一番多い身分シュードラ。最下位の被差別カーストは、田園地帯では掘っ立て小屋に住み雨露はしのいでいるが、町では昼間は幼子を抱いて「バクシーシ」と手を口にあて観光客にむらがり、夜になると歩道で眠る(夏でも冬でも)。写真下は国道沿い、夕暮れの茶店で。左端が茶店の主

夕暮れ時の親父たち
乞食をするために生まれた子供は手を切り落とされたり、足を折られて歩けなくして「バクシーシ」と物乞いし家族を支えて一生を送る。道端の水道で体を洗う家族。制服に身を包んだ上品な子供10人くらいを運ぶ、痩せこけた老リクシャのおじいさん。この国はどうなってんだ!建てているんだか壊しているんだかわからない工事現場の骨組み。サリーの肩掛け布にレンガを詰め、はだしで運ぶ女性たち。商人が多いバイシャの中で大学を出ていてもエリートはほんのひと握り。旅行社に勤めて現地ガイドになる男性が多い。インドの遺跡、建造物、織物、細密画などほんとにすごい。しかし今を生きる人間の、差別のすさまじさは日本にいては到底理解できない。でも多くの人々は、おおらかに逞しく生きています。場末の映画館では壊れた椅子に腰掛け、スクリーンを見ながら一緒に歌い、足を踏み鳴らし、ピーピーと指笛、拍手喝采、気に入らない場面ではブーイング、と元気いっぱい。おおよそ自分たちの日々の生活とはかけ離れた、お金持ちの日常を描いた題材であるにもかかわらず・・・・。戦後日本の若者たちがアメリカ映画やドラマにあこがれたあの時代とそっくり。映画館では持参のカメラを没収された。預けてほんとに戻るんかいな?と心配したが、大切に保管されていました。そう年間制作数世界一(約800本)を誇るインド映画は、3時間(間に休憩15分くらい)の勧善懲悪ミュージカル仕立てです。団体で突然歌い踊りだします。興味ある読者にはお勧めしたいところですが、ビデオで観るのでは???

ペンシル 映画館に関する思い出話をふたつ。今日で帰るという日の時間待ちに場末の映画館へ。座席指定のためすでに締め切りであった。例のごとく度胸と愛嬌で窓口氏に「今日帰るから是非観たい」と懇願しても「ダメ」。がっかりしていたら、入場を待つばかりのひとりの男性がチケットをくれると言う。入場料金は忘れたがありがたく頂きました。また別の訪問時、チケット売り場に並んでいたが、どうも様子がおかしい。どの映画館でも家族連れや女性同士が来館しているはずなのに、男性ばかり。ポスターをよく観ると、解禁し始めたポルノでした。インドにもベネトンが開店し、マクドナルド(ビーフでなくチキン)が上陸したころです。。さすがに列を離れました。インドの映画界は完璧な財閥組織であり、スターも美男美女のオンパレード。日本では「ムトウ踊るマハラジャ」から爆発したと思います。

路上アート2
路上アート1
エンターテイメイントなら笑えることがまだありました。オールドデリーのある街角で、足の不自由なおじさん芸術家を囲んで人だかり。彼はインドの神様をチョークでそれはうまく描きます。好奇心いっぱいの私が見落とすはずがありません。眺めているとやっぱりカモにされました。「ちょっとそこのお姉さん(小柄な私は若くみえます)あんたを描いてあげよう。さあさこちらへ」ってな具合で呼びます。大勢の中で引っ込みがつかなくて、ぼられるなあと思いながらモデルに。上手なんです。感心していると案の定「30ルピー」と要求する。10ルピーで昼食がいただけます。「そんなあほな」と拒否しても、周りでヤイノヤイノと騒ぐ群衆に乗じて折れません。結局負けました。しかし楽しかった。1ルピー3円の時代ですから私自身には問題はありませんが、市民にとっては大金です。こんなときの民衆は絶対といって良いほど連携プレーをとるんだから。こうして日本人はぼられ上手になってゆくのだ。彼らも誰を攻めたらいいのかをよく知っています。どんな時も、まず欧米人は相手にされない。一方欧米の若者は子供たちと駆け引きをしながら遊んでいます。でもぼられないで「さよなら」をします。日本人は面倒くさいから「まあ安いからいいか」の感覚でバクシーシ(喜捨)に応じてしまう。こんな場面を眺めるのも、結構エンターテイメントになりえるんですよ。日本にはとっくの昔になくなった面白いことがインドにはいっぱいあります。インドでは一部の大都市は日々変わっているであろう事でも、大方の街中ではきっとまだ残っているんだろうなあ、こんなことが。

ガネーシャガネーシャガネーシャ

ペンシル 1994年の旅は二人旅のツアー参加でした。初めてインドを旅行される方はツアーのほうがいいです。特に年配で仏跡めぐりを希望される場合は個人旅行では無理です。しっかりした現地ガイドを確保できれば別ですが。その代わり連れて行かれるお土産屋さんは高級店になりますがしっかりした商品が入手できます。
この年サールナートの遺跡公園で募金活動中の後藤住職と逢いました。はじめはインドのお坊さんだと思いましたが、話しかけられて「おや、日本人なんだ!」手にアルバムといかにも弱そうな質感のチラシをもち、学校建設の主旨説明をされました。本音を言うと「う〜ん」でした。手持ちのルピー紙幣を少々寄付しました。でもなぜかチラシは捨てられませんでした。 自転車 遺跡公園を後にし、チョウカウンティストゥーパの前で、自転車で帰る住職とまた逢いました。現地インド人ガイドの間では有名人でした。そりゃそうです、観光客相手に毎日毎日寄付や傷薬や文房具集めをしているわけですから。この時、こんな長い付き合いになるとは夢にも思いませんでした。

別の観光地では、幼い少女が紙を見せて「日本のペアレントからの手紙だよ」と信用させてバクシーシを要求しました。皆がそうではないだろうが、ちょっといやな気分でした。当時広告で見かけ始めた〇〇プランのようでした。帰国後Macを使ってオリジナル名刺や便箋・退職、転宅のあいさつ文などを作成し、制作費をプールしておきました。いつかまとめて送ろう。。。バザーを含めて多くの方からご協力いただきました。「サールナートエンジェル」というニュースレターを4号まで発行して、Macの腕を磨くことが出来たのもいい思い出です。その後インド旅行をしたいがために(動機がやや不純)細々と活動を続けて、1999年まで毎年秋にサールナートへ届けに行きました。毎年行くもんだから顔見知りも出来て、友達になったビルマ青年は「靴がほしい、NIKEを」などと平気で言う。無茶言うなよ。それっきり訪ねていないがどうしているかな?相変わらず自称ガイドで荒稼ぎしているんかいなぁ。この公園に限らず小さい子供が、観光客相手に必死で神様グッズや絵葉書を売ろうと、それはそれは真剣に働いています。あの子供たちも世界的な不景気による観光客減少に嘆きながら、今日も日本人を見つけてはふっかけているんでしょう。ディスカウントの応酬を楽しんでいた私は不謹慎だったと思う。なつかしい〜〜

ペンシル 1995年は珍道中。面白いメンバー構成で今回は2週間4人旅。行く先々で関係を聞かれる。もともとインドの人々は観光客と少しコンタクト取れると、必ず質問する。Chinese? Corian? えっ!ジャポーネ?だいたいこの3点セットです。私の友人K嬢(昨年のツアー仲間)、私の友人の息子T君16歳。T君の母親(つまり私の友人)がインドに行きたかったのに、いつの間にかその息子が同行者に。そして私の息子の学生時代の友人S嬢。はじめは関係を説明していたが、そのうち面倒になって家族で通した。K嬢以外は初対面。関空で「初めまして」で出発。T君は高校生活になじめずちょっと問題を抱えていた。神経質そうな華奢な身体つきであった。S嬢はがっちりとしたインドホームスティ経験者だった。まるこ先生と呼んでいました。さくらももこの「ちびまるこちゃん」と感性がそっくりです。仏教にも詳しい。そしてどういうわけか彼女の食事に対する選択眼はばっちりで、外したことがない。いつも羨ましい食事をしていた。母親役の私はといえば、ただただ国中が博物館みたいなインドが好き!の旅行者。しかし預かった以上、責任重いぞ。T君が「僕帰りたい」と言おうものなら即二人だけで帰国する覚悟でした。しかし、おなかをこわし、つまんなさそうな顔をしながらも最後までついてきました。おまけに後藤住職には「お前坊主になれや」とそそのかされ、住所録の整理を手伝わされていました。彼の名誉のために報告します。現在は元気に働いています。
 別の旅で「僕早く帰りたいんです。チケット買う店教えてください」と青年に泣きつかれたことがあり、結局高いチケットを買って帰国しました。今どうしているのかなぁ?良い育ちの坊ちゃん風で、挫折してなけりゃいいんだけど。

ペンシル 11月9日マドラスから入ってインド最南端カニャクマリ(コモリン岬)へ向かう。翌朝手配の現地旅行者から迎えが来ない。いつものインド時計か。あわてる風もなくのっそりとやってくる。何をそんなに急ぐのか?しかし正確にことが運ぶ日本時間に慣れているとどうも落ち着かない。
 カニャクマリは漁港であり、大きな教会もあり、キリスト教信者が多い。昔フランシスコ・ザビエルが宣教師としてやってきたという。キリスト教の祈りの行事があるとのことで、我々もちゃっかり参列しました。コモリン岬は真正面にインド洋、西側はアラビア海、東側はベンガル湾を望む聖地であり、ガートで沐浴する人々がいる。ガンジー記念堂はいろいろな宗教建築が織り交ざったユニークな建物で、マハトマ・ガンジーの遺灰が収められています。夕日と朝日をじっくり拝みました。夕日ウオッチャーとしては満足満足。このあとボンベイ経由でカルカッタへ移動。生と死、清と濁、静と喧騒の町カルカッタ。この町をふらふらぞろぞろと歩く。大きな緑豊かな公園や寺院があれば、骸骨のような体でリクシャ(自転車で人を運ぶ)を引く。オートリクシャ(昔バタバタといった三輪オート車)をオーナーから借り、1台3人座席に5人も6人も乗せて街中をブーブーとホーンを鳴らして稼ぐ運転手たち。バスには人が鈴なり。やかましいったらありゃしない。しかしその喧騒を、たぶんインド好きはみんな言うだろう「カルカッタが一番おもしろい!」と。そうそうカルカッタは今コルカタと呼びます。ボンベイはムンバイ、マドラス(マドラスチェックのあのマドラス)はチェンナイだそうで、馴染めない。

折鶴 唐突ですが、折紙は国際交流のベスト1だと思う。いつの旅も必ず持参します。特に鶴は最高傑作です。まず1枚の紙で折れて、折りあがったあと羽を開くあの瞬間に動きがあって。大人はまず「お〜」と感嘆の声、子供はどうなってんのかいじくり回す。小さい子供には紙風船が人気!つぶれるまで遊びます。最近は美しい両面柄の和紙がありますので、いくつか折っておいて旅先でお世話になった方へお礼に使っています。欧米の婦人は必ずと言っていいほど「キュート!!」と叫ぶ。


今日もホテルでコーチンから来た家族と、廊下に座り込んで折り紙工作とあいなりました。この家族はおそらくハイソ+インテリ一家で、「廊下に座るなんてとんでもない!」はずなのだが、その場の勢いと子供のはしゃぐ様子で仕方ないと諦めたと思う。インドの階級制度では、日本人だからというのではなく、自分たちと生まれ育ちが違うことで軽蔑していたことだろう。同じテーブルで食事もしないはず。観光ガイドは仕事だから同席する。とにかくはっきりしている。しかし世代がかわり女性が社会進出し、アウトカーストの人々が活躍し始めたこの頃では、少しは・・・・。いやいや頑固なカースト制度はまだまだ健在に違いない。

ペンシル その後バラナシに移動し、サールナートの後藤住職を訪問。安宿に疲れた我々はサールナートとバラナシの間の中級「HOTEL DE PARIS」に滞在した。そこでハイソな結婚式に遭遇しました。それはまるで映画のシーンそのままんま。どうぞ!どうぞ!と誘われるままにテーブルを俳諧してご馳走になりました。もちろん庭園でのセレモニーは夜だけですが、3晩続くとか。新婚カップルのための白い乗用車(アンバサダー)がど派手な飾り付けを施して待機しています。こんな経験は滅多にしないだろうと、ちゃっかり参加しました。しかし、ないと思った経験を、その後のインド旅「ダラムサラ」への途中でもう一度便乗しました。日本で結婚披露宴に飛び込み参加なんていうことは、どっきりカメラの企画くらいでしかお目にかかれないのではないかな?それとも今でも地方の由緒正しい家柄の儀式にはあるのでしょうか。
(写真右下はホテル正面にて、お世話になったF通のお兄さんと。おなかをこわしたT君と同室で看病してもらいました。おまけに鉄道の予約に行く彼にくっついて、駅までぞろぞろ。次回のための予習です)
ホテル デ パリス
 ところで遠藤周作著「深い河」をご存知ですか?ここは映画「深い河」の舞台になったホテルです。部屋が広く、古風なつくりで庭も広く、頼めば中庭で朝食やランチもいただけます。イギリス植民地時代のマハラジャの迎賓館を改築したという。フロントには熊井啓監督や秋吉久美子の写真がありました。ロケ中のスタッフもここに滞在していたそうです。バラナシのガート近く路地裏の食堂に、大きいサイズの色褪せたポスターが貼ってあるのを見たことがあります。

廊下で折鶴
廊下で折鶴の伝授
結婚式1
ホテル内の結婚式
結婚式2
披露宴のごちそう
眠りこける子
疲れて眠りこける子ども
ガートの子
ガートで子供とあそぶ

 カースト制度のなかでは、もちろん同じ階級であること、各カーストの中にもいくつもの階級があって、名前でその階級がわかるという。親が決めた相手であること、べらぼう高い持参金の問題や、身分の違う男女が結婚を許されず・・・の題材が、映画制作数世界第1のインドを支えているといってもよい。「大地のうた」「ボンベイ」のようにシリアスな社会派映画もあるのですが、世界市場むけ。多くのインド人は観ない。なんてったって勧善懲悪のミュージカル仕立てがお・好・き。
 子供は世界中どこでも変わらない。人懐こくて正直で。大人たちの大騒ぎをよそに疲れて眠りこける子。ガート近くで お姉ちゃんかお兄ちゃんにつれられてきたと思しき子。現地で買ったインド綿の民族衣装を着てぞろぞろと旅を続ける私。寒い北インドの冬に、女性用のスパッツを流行させたいのだが、反応はありませんでした。もし今インドでスパッツが流行していればそれは私が仕掛け人ですよ。「バクシーシ」とねだられながら子供たちと遊ぶ。

ペンシル  こうして4人組の旅は、大阪天神橋の旅行社「TRAVEL・MITRA:06-6354-3011」の大麻氏に「面白いメンバーと旅程ですね」といいつつ、しっかり手配をしていただいたおかげで、無事に11月23日2週間の旅を終えました。大麻氏はインドにお墓を造ってしまったほどのインド大好き人間。さくらももこのインド旅行(「さるのこしかけ」に登場)に同行した経験の持ち主です。最後までがんばったT君、2003年5月から2ヶ月半のモロッコひとり旅を敢行したK嬢。まる子先生はその後中国に留学し、そこで知り合ったマリ共和国のインテリ青年と恋に落ちて結婚。マリと日本を行ったり来たり。たぶん2004年には行ったきりになると言う。宗教、制度、風習の違う国との国際結婚に辛抱強く日々を送るまる子先生。幸多かれ、病気に罹らないで!と祈る。
 いつかマリ共和国を訪ねることができればいいのだが。

 96〜99年は、サールナートの住職を訪ねながら、ネパール、ダラムサラを2回、ダージリンを旅しました。順次ご案内しましょ。ダラムサラ関連ではダライ・ラマ14世に酔ってしまいました。時間かかるかもしれませんが、ゆっくりお付き合いください。

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