この日はイスラム教の休日にあたるらしく,学校自体はお休みであった.門をくぐると少女と目が合い,大人を呼んでくれた.見学に来た旨を告げると,鍵を取ってきて教室内を見せてくれた.ひんやりとした教室は,想像以上に暗かった.この日は,小さな机を見ながら「どんな学校なのだろう」と想像するしかできなかった.
翌日も学校を訪れた.既に授業は始まっていた.開かれた窓から授業風景を垣間見ながら,見知らぬ日本人がやってきてそわそわし始める学生達に,前を向くようにジェスチャーで伝えながら見学させてもらった.
一つの机に3人も4人も座って授業は進められていた.こういった状況でありながらも,UP州では最上位の成績を学生達が収めていることを知らされると,驚く以外になかった.
現在校舎は拡張工事が進んでいるが,現時点で800人もの学生が学んでいると聞き,
その規模に唖然とするしかなかった.
ただ,私にとってこの学校訪問は,これまで感じていた漠然とした思いを,もう少し後押ししてくれることになった.学校施設というインフラが整備された後には,インドを含めた国々でいずれ教育の質や効果といった「中味」のことが,公で論議される時代がやって来るのだろう.そのことに備えておくことは,今の自分にはやはり必要なことなのだと.
法輪精舎滞在中には,隣接する高等チベット学中央研究所内を散歩したり,観光地である鹿公園まで歩いて行ったり,ガートを歩くチャンスに恵まれたり,子ども達がクリケットに興じる姿をひたすら眺めていたり,時間はゆったり流れていった.
それでも街を歩けば,道端に干涸らびて転がっている子犬の死体,ガートで焼かれ川に流される遺体,明日まで生き延びることができるだろうかと不安に思えるほど衰弱している牛を見ることがある.そんな時は少なからず心揺さぶられる.
そんな私には,ご住職との静かな時間は貴重だった.
午後になると法輪精舎の庭には暖かな日が差し込んでくる.そんな日を浴びながらご住職の話しを聞き,質問し,また話しを聞くと,暖かい日差しが体を温めるように,暖かい気分になれるのだった.
そしてご住職が作って下さった食事をともに食し,お茶を飲み,話しを聞き,・・・.こんなことの繰り返しを続けるうちに,分からないことや理解し難いことは現実としてこの世の中にあるのだから,焦ることはないのだとご住職に教えられたような気分になって自分に言い聞かせることができた.こんなにもゆったりできた気分はいつ以来だろうかと,思いを巡らせる自分がいた.
だからこそ,今回の旅の終わりはいつになく感傷的になってしまった.やはりもっと早くに来るべきだったと思いながらも,来て良かったという思いに強く抱かれながらヴァラナシの駅に向かった.
サールナート法輪精舎・HOME 広島支部からの寄稿2009年冬 法輪精舎訪問記